岐阜県 岩村城(1) ― 2016年11月04日
岐阜県恵那市岩村町にある日本100名城の一つです。 日本三大山城(岩村城、高取城、備中松山城)の一つです。
歴史は古く、1185 年(1195 年の説あり)に源頼朝の家臣、加藤影廉が遠山荘を賜った頃になります。 その後、長男の景朝が遠山の姓を名乗り、遠山氏の統治が始まります。 当初は山城では無かったようで、戦国時代末期になってからのようです。
岩村城歴史資料館で100名城のスタンプを押して散策を開始します。 本丸近くまで車で行く事も可能ですが、資料館の駐車場にバイクを停めて徒歩で本丸を目指します。
太鼓櫓
資料館のある場所は 1601 年に藩主・松平家乗の藩主邸が建てられた場所でした。 江戸時代に入り、平和な時代になった為、住居を平地に移したようです。 太鼓櫓は城下へ時を伝える役割を担ってました。
藩主邸は明治14年に火災焼失しており、現在の建物は平成に復元された物です。太鼓櫓周辺の紅葉が綺麗だったので記念に一枚。
岩村藩校知新館
知新館が設立されたのは 1702 年です。 この建物は知新館の正門だった物です。 知新館の名称は論語「温故知新」から採った物です。
平尾家邸跡
大手道を少し進むと平尾邸跡が見えてきます。 そこは下田歌子の生家があった場所のようです。 平尾歌子は岩村藩主平尾家の長女で実践女子学園の創設者です。
大手道の反対側には下田歌子が勉強をしていたとされる建物が残されています。 この建物は歌子の父の書斎であり、女性である為に知新館に通えなかった歌子はここで勉強をしました。 祖母から読み書きを教わり、父の書斎にあった書物を読みあさっていたようで、ほとんど独学で学んでいたようです。
この方が下田歌子。
藤坂
岩村城の大手道の内、藩主邸から一の門までの間の坂道は藤坂と呼ばれてます。 名前の由来は藤の木があった事からだそうで、その木は加藤影廉の妻が輿入れする時に持参した種から育った物だったそうです。
初門
クランクのように曲がりくねった場所で、ここに初門がありました。
ただ、何か起こった時に設置する門で、常設されていたのでは無いようです。
ここが岩村城の最初の関門になる事から初門と呼ばれてました。
大手一の門
しばらく進むと石垣が見えてきました。 この辺りが大手一の門だった場所です。 左側の石垣が手前に伸びてきており、敵が正面以外から近づきにくくしています。 それに、門の様子が見にくくなる役割もあります。
一の門は二層の櫓門で、左側には多門櫓もあったそうです。
残されている石垣を見ても、結構、立派な門だったと思われます。
土岐門
一の門の次に現れるのが土岐門です。
内側が馬出状の曲輪になっていたとの事ですが、昔の絵図に書かれているほどの広さは感じませんでした。
遠山氏は土岐氏と勢力を争っており、土岐氏を破った時の城門を移築した逸話からこの名が付いたそうです。 この場所に門は存在しませんが、徳祥寺の山門として移築されており現存します。
畳橋跡
位置関係が今一つはっきりしませんが、この辺りにL字型の橋があったらしく、その橋の先が追手門だったそうです。 と、言う事は、現在歩いているのは堀底って事でしょうか?
う~ん、この石垣に橋が? しかし、山城に石垣を築くのは大変だったとおもいます...
紅葉が綺麗です。
やはり位置関係が良く解らないが、このあたりが多分、追手門の桝形の先なのでは?
竜神の井とその周辺
地図を見ると、この辺りには武家屋敷があったらしい。 竜神の井は昭和60年に創築800年を記念して復元されたものです。
岩村城は、石垣が結構、綺麗に残っていて、思いのほか保存状態が良いです。 この石垣の先が霧ヶ井となり、城の中核へと近づきますが続きは次回へ...。
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