岩手県 九戸城跡2023年08月10日

九戸城は九戸光正が明応年間(1492 ~ 1501年)に築城された平山城で、続100名城の一つです。 九戸政実の頃、南部氏の家督争いで南部信直と対立します。
1591年に九戸政実の乱が発生すると、豊臣秀吉は秀次を総大将とするを派遣し、九戸城は大群に包囲されます。 九戸城は簡単には落城しませんでしたが、助命を条件に降伏勧告が出されると政実はそれに応じます。 しかし、助命の約束は反故にされ、九戸城の場内にいた人は全員処刑されます。
反乱後は蒲生氏郷が城の改修を行い、南部氏の本城となりますが、本拠地を盛岡城に移すと、九戸城は 1636年に廃城になります。

二戸市埋蔵文化財センター
まずは、ここに続100名城のスタンプを押しに行きました。
続100名城のスタンプはガイドハウスでも押せるのですが、ここには二戸市の出土物や九戸城の資料などが展示されているので、先に訪問する事にしました。
二戸市埋蔵文化財センター

駐車場
九戸城跡ガイドハウスの駐車場にバイクを停めます。
奥に見える赤い屋根の建物が九戸城跡ガイドハウスで、ここにも続100名城のスタンプが置かれています。 ガイドハウスには案内図も置かれていたので、城跡を散策する前に訪問すると良いと思います。
駐車場の広さは十分でしたが、思ったよりも駐車してる車が多かったです。
駐車場付近は、恐らく三之丸だった場所かと思います。
九戸城跡・駐車場

本丸西の土塁と堀
駐車場から九戸城跡の方に進むと、最初に見えてくるのが本丸西の土塁と空堀です。
かなり幅が広い空堀で、当時はもっと堀が深かったのかも知れません。
黄色い花が咲き乱れていて、とにかく綺麗な空堀でした。
九戸城跡・本丸西の土塁と堀

九戸城跡・本丸西の土塁と堀

九戸城跡・花

本丸西側の堀を越え、突き当たりは左に行くと二之丸の搦手口に行けるのですが、訪問時は残念ながら発掘調査により通行止でした。
今回は南側の舗装道路に出て大手門の方から入る事にします。
九戸城跡・二之丸搦手口通行止め

深田堀跡
九戸城跡の南側にある歩道道路に出ました。
この辺りは「深田堀」と呼ばれている広大な空堀でした。 あまりにも幅が広いので、空堀の実感がありませんが...。
道路の右手奥には松之丸があったようです。 道路からは墓地のように見えたので行きませんでしたが、松之丸公園として整備されているようです。 行けばよかった...。
九戸城跡・深田堀

二之丸の切岸
舗装道路の左側は九戸城の二之丸です。
非常に落差のある急な崖になっており、これは切岸と呼ばれる人工的に作られた崖です。
深田堀付近の堀は、他ではあまり見た事の無い規模の物でした。
圧倒的な戦力差の豊臣軍に囲まれても、簡単には落城しなかった理由がなんとなく解るような気がします。
九戸城跡・二之丸切岸

二之丸の大手口
大手口は土橋になっており、両脇が深い空堀でした。
城だった頃の土橋がこれほど広かったのかは不明ですが、当時も土橋だったようです。
当時の様子が分からないのですが、東西 48m、南北 5m 以上の枡形虎口だったようです。
当然、城門もあったのだと思いますが、どんな門だったのでしょうか?
九戸城跡・二之丸大手口

かなり幅の広い空堀です。
多分、この幅の堀でこの深さは無いと思うので、堀は埋め立てられていると思います。
九戸城跡・二之丸大手口付近の空堀

二之丸
めちゃくちゃ広いです。
大手口に案内では、二之丸には3カ所の虎口があったとの事。
1つ目が先ほどの大手口、もう一つが反対側にある搦手口、最後の1つは何処だろう?
本丸への出入り口の事を言ってるのかな?
九戸城・二之丸

二之丸の周辺が少し盛土されてました。
多分、当時の土塁跡でしょう。
九戸城・二之丸土塁

本丸と二之丸の間にある空堀。
堀幅がかなり広いです。 多分、堀底は埋め立てられており、城だった頃はもっと深かったと思います。 九戸政実の頃からこんな感じだったのでしょうか? それとも蒲生氏郷が城を改築した時の物でしょうか?
なお、蒲生氏郷から南部氏に城が明け渡された時に福岡城に改名されたようですが、領民は九戸城と呼び続けたようです。 九戸氏と領民との関係性は良好だったようですね...。
九戸城・本丸空堀

大手口から二之丸に入って、左側に進んだ所。
途中から一段高くなってました。 建物でもあったのでしょうか?
二之丸はL字型をしており、写真奥が本丸です。 また、反対側が松之丸で、先ほど歩いてきた深田堀で郭は分断されています。
九戸城・二之丸

本丸の石垣と空堀
蒲生氏郷が城を改修した頃の石垣のようです。 石垣は野面積みで、東北で一番古い石垣のようです。 この石垣は、 1636年の廃城時に意図的に崩された可能性が高いようです。
空堀も幅が広く、多分、もっと深かったと思います。
九戸城・本丸の石垣

本丸虎口
本丸との間が土橋で繋がっており、15m 四方の枡形虎口だったようです。
枡形虎口の本丸側は櫓門だったようですが、二之丸側からは門跡が見つかって無いようです。 蒲生氏郷が整備した桝形虎口のようですが、発掘調査により、九戸氏の頃から同じ場所に虎口があったようです。
九戸城・本丸虎口

虎口周辺には、結構、石垣が残っています。
九戸城・本丸虎口

本丸
二之丸よりは狭いですが、それでも 100m 四方もある大きな郭です。
郭からは7棟の建物跡が見つかっています。 礎石跡のような物が展示されていたので、恐らく、その辺りに建物があったのだと思います。
また、南東、南西、北東の三カ所に櫓もありました。
九戸城・本丸

九戸城・本丸

九戸城・本丸建物跡

本丸の土塁。
かなり立派な物です。 蒲生氏郷が改築した時の物でしょうか?
しかし、九戸政実はここから周囲を包囲する数万の豊臣軍を見ていたのだと思いますが、どんな心境だったのでしょうか..。
援軍が期待出来ない籠城戦は絶望的に思えますが...。それとも、当時の戦国武将は恐怖心よりも闘争本能の方が上回っていたのでしょうか...。
九戸城・本丸の土塁

追手門跡
この先にある丸い印が、恐らく門柱の後なのでしょう。
その先はクランク状に折れ曲がっており、内枡形になっていたようです。
この枡形も蒲生氏郷の時代の物でしょうか?
追手口側は土橋では無く橋になっており、多分、城だった頃も曳橋だったのでしょう。
九戸城・追手門跡

九戸城・本丸追手口の橋

二之丸搦手口
訪問時は発掘調査中で通行する事が出来ませんでした。
大手口、搦手口は九戸氏の後に改修されています。 こちらは 13m × 3m の枡形虎口だったようです。 駐車場から九戸城跡に入った時、通行止めだった道を進むとここに出ます。
九戸城・二之丸搦手口

石沢館方面
搦手口の先に空堀を挟んで石沢館がありますが、搦手口が通行止めなので諦めます..。
もしかしらたら、大手口から大回りすれば行けたのかも知れませんが、かなり遠回りになります。
九戸城・石沢館方面

二之丸大手口の東側は柵に囲まれており、さらに一段高くなっていたので「別の郭かな?」と思ったのですが、ここの先も二之丸のようです。 九戸城の二之丸は、本当に広大です。
二之丸からは掘立柱建物の後や、井戸、刀傷をもつ人骨の埋葬跡なども見つかっているらしいです。 刀傷って、まさか、撫で斬りにされた九戸城の人?
もしそうだとしたら、南部氏は盛岡城へ移るまでの間、籠城兵の死体が埋まっている所の上で生活をしていたって事ですかね...。 今だったら事故物件ですよ...。
九戸城・二之丸

九戸城の反乱鎮圧は悲劇的な結末になりましたが、この戦いは豊臣政権の総仕上げ的な戦いでもあり、不安要素は残せなかったのかも知れません。
でも、助命を約束して降伏させ、その後、全員処刑する卑怯なやり方は武士としてはOKなんですかね...。