長崎県 原城2019年05月02日

原城は 1598 ~ 1604年にかけて有馬晴信が築いた城です。
1614年に有馬氏が日向延岡城に移封した数年後の 1616年に松倉氏が入封します。
松倉氏が 1618 年に島原城の築城を開始すると原城は廃城になります。
松倉氏によるキリシタンの弾圧と厳しい年貢の取り立てにより 1637 ~ 1638年にかけて島原・天草一揆が勃発、一揆勢は廃城になっていた原城に籠城します。
一揆は鎮圧されますが幕府側にも甚大な被害が出ました。 また、領主である松倉勝家は責任を取って斬首になります。

原城の駐車場は城から少し離れた「原城温泉 真砂」付近にあります。 駐車場からシャトルバスも出てますが、周辺も見たかったので歩いて原城に行く事にします。
原城は世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つです。
原城・駐車場

大手口跡
ここが原城の正面入り口だった場所です。 位置的には三ノ丸の東側になります。
この先で発掘調査が行われ、通路の跡や銃弾、人骨などが見つかています。
この付近でも激しい攻防が行われたのかも知れません。
原城・大手口跡

三ノ丸付近
先程の大手口から少し先に進んでみましたが通路が無く、結局引き返す事になりました。
境界がはっきりしませんが、恐らくこの辺りは三ノ丸の東端の方だと思います。
三ノ丸には 3,500人ほどが守備を固めていたようです。
原城・三ノ丸付近

二ノ丸付近
この辺り一帯が二ノ丸だった場所です。 5,700人ほどで守備を固めていました。 この道路の奥が本丸になります。 原城は世界遺産として知られているせいか、海外旅行者も多いです。
幕府側の軍勢の中には剣豪宮本武蔵もいたそうですが、投石に当たり負傷したそうな..。
武蔵はどの辺りにいたんですかね..。
原城・二ノ丸付近

空堀
本丸入り口付近にある空堀です。
縦 10m、横 39m ほどだったようですが、崩落が進み当時よりも広くなっているようです。
堀内部には小屋があったようで、ここにも一揆勢が詰めていたようです。
原城・空堀

本丸正門跡
ここが本丸の正面入り口になります。 石垣は破壊されたはずですが、思ったよりも当時の痕跡が残っています。 見学用に少し補修しているのかも知れませんが...。
発掘調査では崩された石垣の下から女性や子供の骨も見つかっているようです。 一般の農民が家族単位で一揆に参加していたようです。
原城・本丸正門跡

埋門跡側から正門側を眺めた所。
ここは外桝形虎口だった場所です。 築城時には向かって左側の石垣に多門櫓があり、角には隅櫓もありました。 廃城時にこれらの設備がどれくらい機能していたのか分かりませんが、ここを力攻めで落とすのは難しかったかも知れません。
原城・本丸正門虎口附近

埋門跡
ここも一揆終了後に石垣ごと完全に破棄されました。
ここでは3層に分けて展示しています。 一番下(一番手前)には大きな石垣の石があり、その上(写真奥の濃い茶色の部分)に栗石などの小さな石を乗せ、更に土で埋め立てられました。
石垣の下から人骨が見つかったりしているので、死体の上に石垣を崩してそのまま埋め立てたのかも知れません。
原城・埋門跡

本丸門跡
本丸に繋がる最後の門で、櫓門があったと考えられています。
こちらも一揆後に完全に破却され、疎石の一部も失われています。
原城・本丸門跡

本丸門近くにあった石垣の破却跡です。
ここは石垣が内側に窪んだ内隅部だった場所で、石垣を破却して外側に崩したようです。
現在の石垣は耕地整理の為に破却後に築かれた物です。
どうも、この近くに四郎の家があったと推測されているようです。 戦いの最中、四郎はあまり人前に姿を見せなかったようです。
原城・石垣の破却跡

本丸跡
8,000㎡もある広大な本丸です。 天草四郎ら指導者が最後まで立て籠もった場所です。
ここの発掘調査でも多くの人骨が見つかっています。 また、人骨と共に鉄砲の鉛玉を溶かして作ったと思われる十字架が数多く見つかっています。
一揆勢は皆殺しに近い状況だったので、最後の瞬間、ここは地獄絵図だったと思います。
原城・本丸跡

天守跡
天守と呼んで良いのか不明ですが、築城当時はここに三層の天守相当の櫓があったようです。 ただ、一揆が発生した時には既に建物は無かったようです。
この辺りの石垣もだいぶ破壊されていたようです。
こういった破壊された城はどの状態で保存するのか難しい所です。
原城・天守跡

天守跡からの眺めです。
今は静かな場所ですが、ここに一揆勢2万人以上、幕府軍12万人が集結しました。
原城・天守からの眺め

原城・天守からの眺め

天草四郎像
一揆のリーダーとして担ぎ上げられたのがキリシタンからカリスマ的な人気があった天草四郎でした。 当時はまだ16歳の少年でした。
一揆を首謀したのは浪人達だったので、四郎の意思がどこまで一揆に反映されていたのかは不明です。 四郎は外国からの援軍が来るのを信じて祈り続けていたとも言われてます。
一揆の鎮圧後、幕府は四郎の顔を知らなかったので同じ年頃の少年の首を母親にみせ、その反応を見て四郎の首と判断したようです。
原城・天草四郎像

天草四郎時貞の墓碑
墓石の字は劣化していて読み取れませんでしたが、最後に「母」の字が彫られているようです。 西有家町(現・南島原市)の民家の石垣から見つかった物をこの場所に移した物です。
原城・天草四郎時貞の墓碑

左分利九之丞の墓
こちらは幕府方の人物の墓です。 鳥取藩池田家の家臣だった人物で、息子2人を連れて出陣していました。 1638年 2月 27日の総攻撃の時にこの付近で亡くなったよううで、死ぬ間際に近くの石に自分の名前と日付を刻んだと伝わります。
原城・左分利九之丞の墓

池尻口門跡
発掘調査で門の礎石も見つかっていますが、一揆後に石垣や階段は破壊され埋められてしまったようです。
近くに左分利九之丞の墓もあり、総攻撃の時は激戦が行われた場所かと思います。
原城・池尻口門跡

池尻口門から本丸の石垣沿いに正門側に戻ります。
原城・本丸の石垣

途中、破壊された石垣の一部が残っていました。
石垣は単に突き崩すだけでは手前に積み上がってしまうので、崩した石を手前に移動してから崩す事を繰り返しました。 また、崩された石材は死体と共に埋め立てられました。
破却された原城自体が一揆勢の墓のような存在に思えます。
原城・壊された石垣

有馬キリシタン遺産記念館
続100名城のスタンプはここに置かれています。 キリシタンや島原・天草一揆に関する歴史資料などが展示されています。
原城から歩いて来るのはちょと難しい距離ですが、原城に関する資料なども置かれているので立ち寄ると良いかと思います。
有馬キリシタン遺産記念館

この城は廃城後に有名になった変わった城かと思います。 また、島原・天草一揆で廃城が利用された事により、他の廃城になっていた城が徹底的に破壊されました。 昨日訪問した名護屋城の石垣も一揆の後に壊されています。
歴史的な大事件が発生した場所に行けて良かったです。 こんどは他の世界遺産もゆっくり見て回りたいと思います。


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