東京都 築地本願寺~日比谷公園の史跡 ― 2021年05月01日
1617年、築地本願寺は浅草に創建されますが、1657年の明暦の大火で焼失します。
江戸幕府から再建の場所として現在の場所が与えられますが、当時は海上だった為、埋め立て工事が行われました。 その為、この地域が「築地」と呼ばれるようになります。
1923年の関東大震災によって発生した火災で寺院は消失、1934年に現在のインド風建築物として再建されます。
築地本願寺は地下鉄日比谷線の築地駅から徒歩数分です。
有名な寺院ですが、今回、初めての訪問になります。
現在の本堂は鉄筋コンクリート製で、日本の寺院としてはかなり斬新な外観です。
内部は、どことなく東京国立博物館の本館に似ています。
年代的にも近いので、当時の建物はこんな感じの建物が多かったのかも知れません。
洋風なのですが、所々、和風のエッセンスが散りばめられています。
静かに参拝を終え、築地本願寺の周辺を散策する事にします。
蘭学の泉はここに碑(慶應義塾発祥の地)
築地本願寺から聖路加国際大学の方に歩くと、慶應義塾発祥の地記念碑が見えてきます。
1858年、福沢諭吉が中津藩の屋敷に開いた蘭学塾が慶應義塾大学の始まりになります。
でも、案内によると、実際の場所は聖路加国際大学の敷地内だったようです。
ここは、 1771年に中津藩の医師前野良沢らが解体新書を初めて読んだ場所でもあり、解体新書の挿絵を模した「蘭学の泉はここに」碑もありました。(写真は、「蘭学の泉はここに」碑)
聖路加国際病院トイスラー記念館
聖路加国際大学の敷地内にある記念館です。 内部が見学できるのかは不明で、今回は外からの見学になります。 スイスあたりの高原にでもありそうな綺麗な建物です。
1933年に聖路加国際病院の宣教師館として墨田川の畔に建てられた昭和初期の建物です。
出来る限り当時の部材を使う方法で、1998年に現在の場所に移築されました。
鉄筋コンクリート(一部木造)なので、解体して移築するのは大変だったかも知れません。
アメリカ公使館跡碑
トイスラー記念館の近くにはアメリカ公使館跡碑もあります。
昔、この辺りは外国人居留地だったようで、現在の港区麻布にあったアメリカ公使館は 1875年にこの地に移ります。 また、公使館は1890年に現在のアメリカ大使館がある場所に移ります。
移転後、この地に8個の石標が残され、その内の3個がここに展示されています。 (他の石標は別の場所で管理されています。) アメリカらしい、カッコいいデザインの石標です。
外国人居留地跡
明治元年(1868年)、築地は外国人居留地に設定されます。
横浜や神戸と異なり築地は、商館では無く外国公使館や領事館が建てられました。
当時、ここは知識人や外交の中心的な場所だったようです。 条約改正により、1899年に外国人居留地は廃止されます。
イギリス積みのレンガ塀は、外国人居留地時代の物です。 また、ベンチの座面に使用されている花崗岩は、明石小学校・幼稚園の旧校舎の階段で使用されていた物です。
ガス灯のランプ部分は後から修復された物のようですが、支柱は明治末期に使われていた当時のガス街灯です。 何気ない休憩所ですが、歴史的な物が凝縮されている場所です。
京橋記念碑
コロナ過で運動不足なので、築地から京橋まで歩く事にします。
地下鉄京橋駅と銀座一丁目駅の中間付近にある交番脇には、ひっそり佇む親柱があります。
この親柱は、1875年に京橋が石造りのアーチ橋に架け替えられた時に撤去された物です。
日本橋と同じく江戸時代初期に創建された京橋ですが、京橋川の埋立てにより 1965年に撤去されます。 「きやうはし」の文字が渋いです。
横断歩道を渡った先には照明設備付きの親柱もあります。
こちらは 1922年に設置された親柱のようです。
煉瓦銀座之碑
先ほどの照明設備付きの親柱の近くに「経綸」と書かれた碑があります。
1872年、皇居和田倉門付近からの出火によって銀座~築地一帯が消失します。
その後、国費によって銀座は煉瓦街として復興されます。 しかし、煉瓦街は関東大震災による火災によって姿を消します。
この碑は、当時の煉瓦がフランス積みだった事を再現しています。
南町奉行所跡
京橋から西に歩き、有楽町駅に到着。
気が付かない人も多いかも知れませんが、この辺りは南町奉行所があった場所です。
駅前の広場にある石街は、石組下水溝を再現した物です。
発掘調査では、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札が出土しているようです。
注意していないと気が付かないですね...。
近くの配電盤も、「南町奉行所跡」をアピール。
日比谷公園・有楽門
有楽町駅から日比谷公園に向かって歩くと、年代を感じさせる門柱が現れます。
門には明治 35年(1902年)に建造された事が刻印されています。
日比谷公園は幕末までは松平肥前守らの屋敷があったようで、明治以降は陸軍兵練場として利用されていました。
日比谷見附跡
公園に入って少し進むと大きな石垣が見えます。
ここは、江戸城西の丸下の堀の外側で、日比谷見附があった場所です。 ここには櫓門があり、日比谷門と呼ばれてました。
周辺の石垣は 1614年に熊本藩主加藤忠広によって築かれ、門の石垣は 1628年に仙台藩主伊達政宗によって築かれました。
桜田上屋敷跡
1601 ~ 1661年の間、ここには伊達家の上屋敷がありました。
伊達政宗は、1636年にここで 70年の生涯を終えます。
政宗が死んだのは東京だったのですね...。 てっきり、仙台かと思ってました。
旧日比谷公園事務所
1910年に日比谷公園の管理事務所として建てられました。
1976年からは公園資料館として使用されており、現在は結婚式場になっています。 当日もパーティーが開かれてました。
ドイツ風の美しい建物ですが、利用客以外の内部見学は難しそうですね..。
築地から日比谷まで歩くと、結構、良い運動になります。
特に目的があって歩いた訳ではありませんが、意外と史跡が残っているので面白かったです。
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