福岡県 水城跡2019年04月29日

663年の白村江の戦で大和朝廷は敗れました。 神羅・唐の連合軍の侵攻を恐れた大和朝廷は防御の為に大野城、基肄城を築きました。 そんな中、664年に福岡平野の狭くなった部分を塞ぐように築かれた土塁と堀が水城です。 長さは 1.2km、土塁の高さは 9m ほどあります。

バイクは水城跡第2広場の駐車場に駐車しました。
雨風がこれだけ強いと、見学に来る人もほとんどいません。 駐車場は閑散としてました。
到着したのは続100名城のスタンプが置かれている水城館の閉館30分前。 時間が無いのでとりあえず資料館に急ぎます。
水城跡第2広場

水城館
この水城の土塁に埋め込まれている建物が水城館です。 なかなか斬新なデザインです。
ここで水城のビデオ説明を見た後、続100名城のスタンプや説明資料を入手しました。
ズブ濡れ状態だったので、ここで準備を整えて水城の散策に向かいます。
水城館

展望台
水城館の近くから土塁の上に登る事ができます。 水城の土塁は高さ 9m もあり、雨と強風の中、何度も傘が裏返しになりながら登りました。
水城・展望台

水城・展望台

ちょっと木が邪魔ですが、道路を挟んでこの先に土塁が続きます。
土塁は2段構造で、幅 77m の下成土塁の上に高さ 7m の上成土塁が乗っているような構造です。 下成土塁の幅は太宰府側(向かって左側)が 41mあり、博多湾側(向かって右)よりもだいぶ広くなっています。 多分、左側の樹木が並ぶ辺りまでが下成土塁かと思います。
水城跡

大野城川を見た所。
土塁は大野城の方まで繋がっているのでしょうか?
水城跡

水城東門跡
土塁から降りて県道の方に近づくと発掘調査や上水道工事で見つかった礎石が展示されています。 手前2つの石は実際に東門で使用されていた可能性があるそうです。
この辺りに東門があり、1000年以上も前からほぼ同じ場所を道路が通っていた事を考えると不思議な感じがします。 道路って意外と変わらないんですね...。
なお文献などから門は、1183年頃までは存在していたようです。
水城東門跡

古代官道跡
県道のすぐ隣にあるのが古代の官道(昔の国道)跡です。 この道路はほぼ一直線に現在の博多駅付近まで続いていたそうです。 大昔、ここを多くの人が通行していたのだと思います。
発掘調査により、道幅は約10m 、西側には側溝もあったようです。
街道には並木を植えて通行人が木陰で休めるように配慮していたようです。 側溝からはクルミやヤマモモの花粉が検出しているそうで、それらの樹木が植えられていた可能性が高そうです。
水城跡・古代官道跡

県道を渡って水城跡の西側を眺めます。
今は田んぼですが、水城跡の土塁両サイドには水堀があったようです。
「水城」の呼び名は水堀が関係しているのかと思います。
水城跡

土塁沿いに遊歩道を高速道路の方へ少し歩いてみます。
歩いている部分が下成土塁の外堀側で幅は約 6m ほどあるようです。
遊歩道の右側が外堀で、幅 60m もある水堀だったようです。
雨も激しい上、駐車場の閉鎖時間も近かったので途中で駐車場に引き返す事にします...。
水城跡

水城跡

水城跡

新元号「令和」は万葉集の序文からとの事ですが、その舞台だったのが大伴旅人の邸宅だとされています。 大伴旅人は3年ほど太宰府に赴任しましたがその間に妻を亡くします。
児島はそんな旅人に寄り添う訳ですが、旅人帰京の際に2人が読んだ別れの歌も万葉集に収められています。
偶然ですが、新元号と関わりのかる地を旅する事になりました。


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