大分県 角牟礼城 ― 2019年04月29日
角牟礼城の正確な築城年代は不明ですが、弘安年間(1278~1288年)に森朝通が築城したと伝わります。 史料に初めて登場するのは 1475年の文書になります。
天文年間(1532~1555年)には大友氏の支配下にあったようで、1586年の島津氏との戦いでは落城せずに耐え抜きました。
豊臣秀吉による天下統一後の文禄の役で失態した大友氏は 1593年に改易され、翌年に毛利高政が入城します。 角牟礼城はこの頃に大きく改城されます。
1600年の関ケ原の戦いで西軍が敗れると城は黒田如水により開城、翌年には廃城になります。
船の中では予想通り、ほとんど寝られず...。 陸が近づいてきたので外に出てみると小雨が降っていました。 陸地もガスっていて快適な走行とは行かなそうです。
船の到着時間によっては角牟礼城の訪問は止めようかと思いましたが、定刻通り7時には着いたので訪問する事にします。
下船後、別府IC から高速に乗りましたが、もの凄いキリで前が全く見えません。 高速道路に入るも、身の危険を感じてしばらく徐行運転が続きました...。
三ノ丸
8:50 頃、駐車場のある三ノ丸に到着。 バイク2台の先客がいて、ちょうど城跡の方から戻ってくる所でした。 この駐車場までの林道は道幅が狭いので、車だとすれ違うのが大変かも知れません。 三ノ丸周辺の石垣は、なかなか良かったです。
駐車場部分は三ノ丸のほんの一部で、ほとんどの部分は整備されている感じはせず、あえて散策しませんでした。
雨が止んだので、今のうちに角牟礼城を散策する事にしましょう。
二ノ丸の石垣です。
説明には、「穴太積み」と記載されていました。 ようするに「穴太衆が積んんだ野面積の石垣」と言う事だと思いますが、穴太衆って滋賀県大津市付近出身だったような気がするのですが、はるばる九州まで来て仕事をしていたと言う事でしょうか?
大手門跡の案内があった場所ですが、どの辺りに門があったのか理解できず中途半端な撮影に...。 礎石跡や瓦片などから立派な櫓門があったらしいです。
二ノ丸西曲輪
大手門跡から先に進むと二ノ丸西曲輪の石垣が見えてきます。
雑誌に載っていた地図と見比べても、位置関係が良く解りません...。
西門跡
案内が無ければ門跡とは思わない場所ですが、大手門と同等の櫓門があったらしいです。
礎石が見つかっているそうですが埋め戻されているのかも知れません。
本丸に向かう途中にあった石垣。
本丸近くにあった切岸です。
切岸は人口的に斜面を削って崖のようにした防御施設です。
本丸
あまり通路っぽく無い斜面をしばらく登ると本丸の虎口が見てきました。
この辺りは石垣のような遺構が見当たりません。
本丸は広々としていて周辺には土塁跡も残されていました。
本丸北側にあった隅櫓跡です。 案内が無ければわからない場所ですが、この辺りは門丸では珍しい石垣になっています。
毛利高政は角牟礼城を石垣の城に改築しましたが、本丸周辺はあまり手を付けなかったのかも知れません。 上に登るほど「土の城」と言った感じでした。
天気が悪いので本丸からは少し山肌が見える程度でした。
まぁ、これはこれで綺麗な眺めです。
再び雨が降り始めたので急いで下山します。
わらべの館
角牟礼城から下山して続100名城のスタンプが置かれているわらべの館に到着。
資料館が2階にありましたが料金を誰に払ったら良いのか分からず、資料館の人も熱心に先客に説明をしていたので今回はスタンプだけ押して先を急ぐ事にしました...。
猫たちに見送られて次の目的地、大野城に向かいましょう。
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