秋田県 秋田城跡2023年08月11日

続日本書記に、733年に出羽柵(山形県庄内地方)が秋田村高清水岡に移転した記述があり、それが秋田城の始まりと考えられています。 また、760年の文献に「阿支太(あきた)城」の記述が現れる事から、この頃から秋田城に改名されたと考えられています。
秋田城は城柵と呼ばれる大和政権時代の古代の城跡ですが、軍事拠点としては山城と比べると防御力が低かったようです。 秋田城は最北の場所に築かれた城柵でした。 以前訪問した宮城県の多賀城も同じ部類の城になります。
10世紀中頃に城としての機能を失ったようですが、古代の城なので分かっていない事が多いようです。 現在は秋田城跡史跡公園として管理されています。

秋田城跡歴史資料館駐車場
続100名城のスタンプが置かれている、秋田城跡歴史資料館に先に行ってから秋田城跡を見学する事にします。
資料館の前にも駐車場があるのですが、行き方が分からなかったので、この出羽街道沿いの駐車場に停めました。
秋田城跡歴史資料館駐車場

築地塀跡
駐車場にオレンジ色のラインが引かれています。
この駐車場は、秋田城の中心だった政庁があった敷地の一部で、このラインの所に政庁を囲む土塀がありました。 政庁は東西 94m、南北 77m の長方形で、この駐車場の近くには西門があったようです。 土塀の幅は 1.2m で高さは 2.9m あり、上には瓦屋根がありました。
ただ、これだけ土地開発が行われていると、当時の遺構は残って無いのかも知れません。
秋田城跡歴史資料館駐車場・築地塀跡

秋田城跡歴史資料館
秋田城の周辺は外郭と呼ばれる城壁で囲まれており、この資料館がある場所も外郭の内側になります。
この資料館には秋田城の出土品や関連資料が展示されており、先に訪問すると良いかも知れません。 続100名城のスタンプもここに置かれています。
展示物とビデオを見終わった後、スタンプを押して秋田城の見学を開始します。
秋田城跡歴史資料館

政庁西門跡
資料館から公園への連絡橋は、政庁の西門があった場所のようです。
西門は柱2本の棟門で、幅が 1.2m あったようです。
ここから、外郭の正門に向けて幅 12m の道路が整備されていたと考えられています。
連絡橋の下を通る出羽街道が、妙に低い場所を通っているので、最初は秋田城の堀跡かと思ったのですが城跡とは無関係なようです。
明治時代に出羽街道を切通しとして道路開削したのが現在の道路で、それによって政庁西門や西脇殿の遺構は残っていないようです。
秋田城・政庁西門跡

政庁正殿跡
秋田城で最も重要な建物でした。
6回ほど建て替えが行われているようです。 当初は掘立柱建物だったようですが、最後の建て替えの時に、礎石の上に柱が建てられるようになりました。
2期の柱穴から多量の塼(せん・古代の煉瓦)が見つかっており、初期の頃は床に塼が敷き詰められていたようです。 また、発掘調査により、最後に再建された時は白壁だった事も分かっているようです。
秋田城・政庁正殿跡

政庁北東建物跡
この建物は5回ほと建て替えが行われていたようです。
掘立柱建物だったようで、5期の頃から火を使う建物だったようです。
ただ、正殿のすぐそばの建物で、火を使う施設と言うのは、ちょっと想像が付かないですね..。
秋田城・政庁北東建物跡

政庁南東建物跡
北東の建物よりも少し大きかったようですが、説明が無かったので詳しい事は分かりません。
ARポイントの札があったので、アプリがあると再現建物の画像が見れるのかも知れませんね。 最近はAR(拡張現実)技術を使った展示も増えてきており、直感的に当時の様子が把握しやすくなっているようですが、アプリのインストールが面倒で...。
秋田城・政庁南東建物跡

政庁東門
政庁周辺の土塀の一部と東門が再現されていました。
878年に蝦夷が起こした元慶の乱では、秋田城は防衛しきれずに占拠されたようです。
確かに、この程度の門と塀では、外郭が突破されたら、防御する事は困難に思えます。
多分、外敵からの防御と言うより、不審者が重要施設に侵入する事を防ぐ程度の目的だったのでしょう...。
秋田城・政庁東門

秋田城・城内東大路

城内東大路
発掘調査では、政庁から東西と南に通じる大路と側溝の存在が確認されています。
北側は、土地開発により遺構が破壊されてしまったようで、外郭北門や城内北大路は発見されていません。
この通路は、政庁東門から、外郭東門に通じる城内東大路と側溝を復元した通路です。
奈良時代の道幅は 12m ありましたが、平安時代になると 9m に狭められます。
実際に歩いてみると、妙に道幅が広く感じます。
秋田城・城内東大路

秋田城・城内東大路の側溝

史跡公園管理棟
続100名城のスタンプはここにも置かれています。
管理棟前には秋田城の駐車場があります。 資料館に行かないのであれば、ここの駐車場が広くて使いやすいかも知れません。 また、ここで秋田城のガイドを依頼する事も出来ます。
めちゃくた暑かったので、ここの自動販売機で飲み物を買って一休みしました...。
秋田城・史跡公園管理棟

外郭東門
奈良時代の外郭東門を復元した門と築地(土塀)です。 高さは 6.5m あります。
軒先を見ると軒瓦がありません。 丸瓦が載せてありますが、の軒先に使うような物では無く、漆喰のような物がそのまま見えています。
秋田城・外郭東門

復元された築地は一部ですが、当時は総延長約 2.2km もあり、政庁全体を囲んでいました。
外郭がこの高さでは、元慶の乱の時に守り切れなかったかと思います。
元慶の乱の後は城壁も強化されたようなので、10世紀頃はもっと高い塀だったのかも知れません。
秋田城・外郭築地

古代水洗厠舎
斜面が小さなダムのようになっている建物が見えてきました。 ここは、古代の水洗便所を復元した物です。 沼地の岸辺に盛土をして斜面を作り、便所の下に木桶が埋められており、その先は沈殿槽になっていたようです。
水洗機能を備えた便所としては日本最古のようで、他では見つかっていないようです。
秋田城・古代水洗厠舎

秋田城・古代水洗厠舎

多分、丸い穴の上で用を足し、甕の水で流したのだと思います...。
手前にある細い棒は籌木(ちゅうぎ)と呼ばれている物で、この木の棒でお尻を拭いていたようです..。 さらに、沈殿槽からは籌木の他に寄生虫の卵なども発見されています..。
見つかった寄生虫の卵の種類から、ここを使用していたのは東北の人では無く、畿内から来た人だと推測されています。
大発見なのかも知れませんが、個人的には、こんな場所は発掘したく無いですね...。
秋田城・古代水洗厠舎

竪穴住居跡
秋田城跡では、300以上の住居跡が見つかってますが、ここはその中でも一番古い部類に入る物です。 竈の跡や食器類も発掘で見つかっています。
建物が建っていた時期や場所から、居住用では無く作業用か管理用宿舎のような物ではないかと推測されています。
秋田城・竪穴住居跡

古代沼
縄文時代以前から存在する沼を再現した物です。
城内の儀式で使われたと思われる、人形(ひとかた)や矢羽根、顔が描かれた土器などが見つかっています。 儀式に使われた物をこの沼に投げ入れていたのでしょうか?
秋田城・古代沼

古代沼の側に復元された井戸です。
この井戸は、平安時代に作られた物のようです。
井戸の周辺は木組になっていたようですが、発掘時の写真と再現された井戸はちょっと違う印象を受けます。 当時の物の方がもっとシンプルな作りだったようです。
今でも水が湧き出るらしく、当時も浅い井戸だったようです。
先ほどの厠舎が近いのが、ちょっと気になりますね...。
秋田城・井戸

鵜ノ木地区
この辺りは外郭の外側ですが、多くの掘立柱建物跡や井戸跡が見つかっています。
建物跡も大小さまざまで、平安時代はこの辺りが寺として使用されていたと考えられています。 再現されている建物跡は、四天王寺跡と推定される建物跡のようです。
発掘調査では、753年の納税記録と思われる木簡なども見つかっています。
秋田城・鵜ノ木地区、建物跡

秋田城・鵜ノ木地区、建物跡

こちらの井戸は綺麗な円形をしています。
発掘調査でも、加工した杉材を円形に組み合わせている状態で見つかっています。
また、井戸の中から見つかった木簡から 733年頃に造られた事が分っています。
秋田城・鵜ノ木地区、井戸跡

10世紀中頃までは城として機能していたようですが、その後、どういう理由で秋田城が廃城になったのかは不明なようです。 時代の流れとともに、城柵の役目自体が終わったのかも知れません。 しかし、秋田城の国司の呼び名である「秋田城介」は、秋田城が無くなった後も官職名として残り続けました。 それだけ影響力が大きな城だったのでしょう。


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