大分県 臼杵城2018年05月03日

臼杵城は 1556年に大友義鎮(宗麟)が丹生島に築城して拠点を移したのが始まりと伝わります。 どうやらこの辺りは昔は海だったようで、明治に入って埋め立てられて陸続きになったようです。
1586年、臼杵城は島津氏の猛攻を受け甚大な被害を受けますがなんとか持ちこたえます。 その後、秀吉の援軍により島津軍は撤退していますが、義鎮は翌年病没します。
文禄慶長の役で大友義統が改易されると福原直高が城主になり、関ケ原の戦い以降は稲葉氏が城主となり幕末まで続きます。

続100名城のスタンプが置かれている臼杵市観光情報協会には会館時間前に到着しましたが、職員の人に話をしたらバイクを停めさせてもらえたので先に城跡の散策を行います。
どうやらイベントが行われるらしく、皆さん、忙しそうに準備をしてました。
臼杵市観光情報協会

畳櫓
まず目に入るのがこの風景です。
昔は周りが海なので、崖の上の櫓は威圧感があったと思います。 この崖の高さも築城する場所に選定された理由の一つかと思います。
畳櫓は天保年間(1831年~1845年)に再建された現存建築物のようで、解体修理の際に隠し狭間が見つかっているそうです。
臼杵城・畳櫓

臼杵城・畳櫓

古橋口
臼杵市観光情報協会からだと、ここが一番近い入り口になります。 ここは大友氏が築城した当時からの登城口で、岩をくり抜いた鐙坂を登って二ノ丸に進みます。
1597年に太田氏が入城すると、古橋口の前の中州のような場所に三ノ丸が築かれ橋が架けられました。 臼杵城は島でしたが、橋で陸地と繋がっていたようです。
臼杵城・古橋口

臼杵城・鐙坂

古橋の脇には亭櫓が配置されていたようですが、現在は櫓の土台のみ残っています。
臼杵城・亭櫓跡

大門櫓
鐙坂を登り畳櫓を通り過ぎると、二ノ丸の入り口となる大門櫓に到着します。
この門は平成12年に復元された門なのでわりと最近の物です。
この門が置かれたのは稲葉氏の時代になってからで、それまでは二ノ丸の石垣沿いにさらに奥まで進み、本丸の二ノ丸の間にある空堀から入城すると言う、かなり遠回りをしていたようです。
臼杵城・大門櫓

時鐘櫓跡
大門櫓から二ノ丸に入らずに少し先に進むと鐘楼が見えてきます。 昔はここに鐘楼櫓がありました。 吊るされている鐘は刻まれている銘から、1700年に鋳造され 1790年に改鋳された事がわかります。 明治に入って廃城後、畳櫓横に移されていたようですが、2008年に元の場所に戻ってきました。
臼杵城・時鐘櫓跡

井楼櫓跡
大門櫓から二ノ丸に入って右側にあった櫓跡です。
建物は失われてますが、もしこの櫓が残っていたら下から見上げた時に井楼櫓、大手門櫓、畳櫓が並ぶ風景になるので壮観だったと思います。
臼杵城・井楼櫓跡

会所櫓跡
太田氏の頃までは入城する際、この会所櫓の下を通る事を強制されていたので、この櫓は防御施設的には重要な物だったと思います。
臼杵城・会所櫓跡

昔は右下の登城路を通って入城してました。 狙い撃ちするには絶妙な場所です。
大門櫓方面に続く石垣の上にも、多分、塀のような物が配置されていた事でしょう。 多門櫓だとしたら、ちょっと幅が狭いか?
臼杵城・会所櫓跡からの眺め

二ノ丸跡
1676年以降、本丸よりも二ノ丸の方が中心的な存在となります。 藩主の居住区も二ノ丸に移されています。 当時の面影は残ってませんが、護国神社周辺の庭園は当時の庭園の一部だそうです。
臼杵城・護国神社

現在では、二ノ丸の半分くらいはグラウンドとして使用されてます。
臼杵城・二ノ丸跡

空堀
二ノ丸と本丸を分断するように築かれた空堀です。
こちらは稲葉氏の時代に築かれた南側の空堀です。 右側の少し出ている場所が武具櫓があった場所です。
臼杵城・空堀

こちらは大友氏の時代に登城路としても使用されていた北側の空堀です。 南側よりも古くからある空堀で、右側の石垣は天守台だった場所です。
臼杵城・空堀

武具櫓跡
本丸側から武具櫓跡を眺めた所です。
空堀側から見た時は綺麗な石垣に見えましたが、内側から見るとあまり保存状態が良く無さそうですね...。 土塁のように見える場所が当時は石垣だったのでしょうか?
臼杵城・武具櫓

武具櫓跡の近くにある、鉄門櫓があったと思われる場所です。
恐らくこの辺りに鉄門櫓があり、桝形虎口を構成していたのかも知れません。
石垣の石も、他と比べると大きな物が使用されています。
臼杵城・鉄門櫓跡付近

天守櫓跡
この場所に三層四重の天守櫓がありました。
発掘調査によって天守櫓が建てられたのは、福原直高が城主だった 1594~1597年頃と推定されています。 1655年には大規模な改修が行われ、本丸北西の櫓と連結されました。
明治に入って臼杵城が廃城になると、天守は解体され部材は他に転用された可能性が高いようです。 また、天守櫓の石垣も現在よりもっと高く 7m ほどあったそうです。
臼杵城・天守跡

臼杵城・天守跡

本丸跡
大友氏の時代の使われ方は良くわかっていないそうです。
江戸時代には本丸御殿が建てられ、御殿は政務を行う為の「表」と呼ばれる区画と、藩主の生活空間となる「裏」と呼ばれる区画に分けられます。
但し、三ノ丸から離れており不便だった事から、防御力よりも利便性が優先され、1676年には多くの機能が二ノ丸に移されました。
臼杵城・本丸跡

本丸一番奥の亀首櫓跡から外を眺めると海が近い事を実感します。
遠くに津久見島が見え、少しだけここが島だった事を実感します...。
臼杵城・本丸からの眺め

古橋口付近からの眺めが印象的な城跡でした。
現存建築物は少ないのですが、石垣などの保存状態は良さそうです。
そろそろ、臼杵市観光情報協会に戻って続100名城のスタンプを押しましょう。