山形城2016年08月18日

山形県山形市にある日本100名城の一つです。
初期の築城は 1357 年に斯波兼頼(しば かねより)によって行われました。 現在見られる遺構の多くは最上義光が慶長年間(1596 ~ 1615年)に城郭整備した時の物や、1622 年に城主になった鳥居忠政による改修時の物のようです。
江戸中期には石高が減少した事により城の維持・管理が困難になっていたようです。 明治に入ると陸軍の駐屯地として使用され、堀などが埋め立てられました。

北門
現在は霞城公園として整備されており、駐車場も豊富でバイクを停める場所には苦労しませんでした。 公園内の駐車場へは北門から入ります。
山形城・北門

門周辺の石垣は見事ですが、そこから先の堀周辺は普通の土塁で築かれており石垣では無かったです。 この水堀は外堀のように見えますが実際は中堀(二の丸堀)で、現在は残っていない外堀(三の丸堀)が存在していたようです。 ちなみに、山形城は全国5位の規模を誇る城だったそうです。 
山形城・中堀と土塁

東大手門
1991 年に江戸時代中期の様式で復元されました。 内部も公開されています。 構造としては、高麗門、櫓門、土塀で囲まれた枡形門になります。
山形城・東大手門

山形城・東大手門

門を復元するにあたり、石垣の積み直しが行われました。 また、国内で大きな木材の調達が困難だった為、台湾から輸入したそうです。
山形城・東大手門

山形城・東大手門

内堀
本丸を囲む内堀(本丸堀)は、陸軍駐屯地となった明治29年に埋め立てられていましたが、平成8年からの発掘調査で一部復元されています。 多分、当時は水堀だったと思います。
山形城・内堀

本丸の井戸
本丸の調査中に発見された石組井戸です。 石組井戸が作られるようになったのは江戸時代に入ってからで、当時は1~3mほど掘るだけで水が出たそうです。 この井戸は、石組が崩れる危険性がある事から井戸底まで掘っていないので深さは不明です。
山形城・本丸の井戸

本丸周辺の石垣
最上氏が築城した時には石垣はありませんでした。 石垣が築かれたのは鳥居氏の代になってからです。 北門の石垣より、石が綺麗に加工されている感じがします。
山形城・本丸周辺の石垣

山形城・本丸周辺の石垣

一文字門の大手橋と高麗門
本丸への入口は2つあり、一文字門はその一つです。
一文字門は枡形門で、大手橋、高麗門、櫓門、土塀で構成されています。
大手橋は 2004 年に、高麗門、および土塀は 2014 年に復元されました。
山形城・高麗門と大手橋

山形城・高麗門と大手橋

高麗門を通って枡形の内側から見た所です。
左側の石垣の上に櫓門(一文字櫓)があったそうですが、当時の写真や図面が見つかっておらず復元できないそうです。
山形城・櫓門跡と高麗門

崩落した石垣の跡
本丸の発掘調査を行っている時に石垣の崩落跡が見つかりました。
江戸後期の絵図にも、櫓台の石垣の一部に「御櫓崩」との記載が残されているそうです。 崩れた石垣は再利用されずに、そのまま均されたようです。
よく見ると、石垣の下の方は野面積の様に見えるので、その時の修復跡でしょうか? (単に、復元時の問題かも知れませんが...。)
山形城・石垣の崩落跡

南門
曲がりくねった感じが枡形虎口のようなので、こちらの門も枡形門だったのかも知れません。 現在は石垣しか残ってません。
山形城・南門

ここから見ると、門周辺のみ石垣で、それ以外は土塁で構成されている事が解ります。 
山形城・南門周辺

土塁の上を歩いている時に見つけました。
塀礎石と言うそうで、この石の上に塀が建てられていたそうです。
山形城・土塁の上

平成45年度を目標に当時の姿に戻す作業を進めているので、数年後に訪問するとだぶ変わっているかも知れません。
現在も結構大規模な工事が行われているようです。