鳥取城跡 ― 2017年08月23日
鳥取県鳥取市にある日本100名城の一つです。
天文年間(1532 ~ 1555年)に築城されたのが始まりのようですが、誰が築城したのかに関しては意見が分かれているようです。 現在は但馬山名氏の説が有力なようです。
鳥取城を有名にしたエピソードの一つが豊臣秀吉による兵糧攻めで、「鳥取の渇殺(とっとりのかつえごろし)」と呼ばれている凄惨な物でした。
何しろ味方が鉄砲に撃たれると、息がある内にバラバラに解体されて仲間内に食べられると言うホラーな世界が繰り広げられていたそうです。
100名城のスタンプを押した仁風閣から鳥取城の散策を開始します。 仁風閣の庭に鳥取城への入り口があったのでそこから登ります。
二の丸への途中の石垣に、「お左近」の手水鉢なる石が石垣に使われていました。
鳥取城の現在の姿は池田長吉の代に行われた築城跡になりますが、大変な難工事だったようです。 そこで、息子長幸の妻の侍女、「お左近」の手水鉢を石垣に使った所、無事に工事を終える事ができたそうです。 多分、あの穴の開いた石がその手水鉢かと思います。
二の丸の入り口に到着。
右側の高い石垣の上に御三階櫓が建っていたようです。 また、階段の所には裏門があったようですが、簡素な物だったようです。 裏門は江戸末期には渡櫓門に改修されたようですが、その後幕末を迎える事になるので、櫓門だった期間は比較的短かったと思います。
ここまで綺麗な石垣が続きますが、昭和18年の鳥取地震では石垣が崩れるなどのかなりの被害があったようです。
二の丸
江戸時代初期には藩主の住居となる御殿がありましたが、後に御殿は三の丸にうつされます。 二の丸は1720年の火災で建物は全焼します。 御三階櫓と走櫓以外は再建されず、1844年まで放置されていたようです。
御三階櫓跡
ここに御三階櫓が建てられたのは池田光政が改築した頃だとされています。 櫓は 1720年の火災で焼失しますが、1728年に石垣の修理と共に再建されました。 櫓は明治12年に解体されるまで現存してました。 その姿は古い写真にも残されています。
菱櫓跡
ここには床面が菱型をした2階2層の櫓が建っていたようです。
1720年の火災による焼失後は再建されずにいましたが、最後の藩主、池田慶徳の時に再建されたようです。 鳥取城は江戸末期に意外と城の再建事業を行ってますね...。
石垣を見ると野面積に見えるので、鳥取城の石垣としては古い年代なのかも知れません。
鉄御門(表御門)
こちらが二の丸への正門だった鉄御門があった場所です。
昔の絵図を見ると、なかなか立派な門だったようで、写真を撮っている手前側は多門櫓と連なっていたようです。
本来はここから天球丸の下に行けるようですが、修復工事が行われているらしく通行禁止の状態でした。 天球丸を下から見るのは諦めて、上から見る事にします。
天球丸
鉄御門から天球丸の石垣が見えます。
石垣の斜面を見ると、少しお腹が膨らんでいるように見えますが、そこが天球丸の球体に積まれた石垣の一部で、石垣の石がはみ出している訳ではありません。
こうして見ると、近くに行けそうなんだけど...。
天球丸に到着。 結構、広いです。
天球丸の名は、池田長吉の姉、天球院に由来するそうです。
天球丸には三階櫓があったようですが、1720年の火災により焼失し、再建される事は無かったようです。 入口には風呂屋御門と呼ばれた門があったようで、恐らく、その門があった辺りを通って入って来たと思うのですが気が付きませんでした。
天球丸の端にあったとされる三階櫓の跡。 細長い櫓だったようです。
火災で焼失後、三階櫓は再建されませんでしたが、1839年、その跡地に武具櫓が建てられました。 右側が武具櫓の跡地で、左側の三階櫓に少し重なる感じで建てられていたようです。
これが一番見たかった天球丸の丸い石垣です。 こんな不思議な積み方をした石垣は他では見た事がありません。 1807年頃に石垣が崩れそうになり、それを防ぐ為に積まれた石垣のようです。 角を持たないこのような石垣を巻石垣と呼ぶそうで、護岸工事などで使われた技法だったようです。 ちなみに、この巻石垣は、昔を絵図を参考に復元された物です。
鉄御門と天球丸の間に合った神社。
何の神社なのか不明ですが、お稲荷様がいる事から稲荷神社でしょうか?
八幡宮跡
山上の丸へ向かって山を登り始めると、八幡宮跡が見えてきます。
本殿や鳥居、池などを備える神社だったようですが、現在は石垣以外なにも残ってません。
先ほどの神社と何か関係があるのでしょうか?
途中で見かけた「クマ出没注意」の看板が気になりますが先に進みます...。
想像以上に足場が悪く、急な坂が続く山道。 ちゃんとした靴を履いてないと登るのは難しいです。 仁風閣の庭から直接登った為、飲み水を買いそびれたのが失敗でした。
この炎天下、汗の量が半端ないです...。
何とか五合目の神社に到着。
水分補給がままならないのがキツイです。 しばし休憩...。
しかし、この先の八合目で足が痙攣し始め、軽い脱水症状かと思い登山を中断して下山する事に...。 やはり、この炎天下、飲み水が無いのは致命的でした...。
なんとなく、もう少し休めば登れたような気もしますが、無理をするのは危険なので下まで降りてきました。 さすが、秀吉が力攻めを止めた城です。
中仕切門
当時の姿を偲ばせる唯一の建物です。
昭和50年に突風で倒壊しましたが、その後復元さてたのが現在の門です。
案内板では「復元」と記載されてますが、「現存建物」と説明しているサイトを多く見かける事から、当時の部材を利用して倒壊した門を再建したのかも知れません。
鳥取県立博物館
自動販売機でペットボトルを2本ガブ飲みした後、体を冷やす為県立博物館に立ち寄ります。
展示は充実してましたが、鳥取城に関する資料が無かったのが残念です。
ちなみに、博物館がある敷地は、江戸時代には城代屋敷、上御厩、米蔵などがあった場所だったようです。
吉川経家像
織田勢の山陰侵攻により、鳥取城の応援要請を受けた毛利方は吉川経家を派遣しました。
秀吉による兵糧攻めに対応する為、経家は食料の持ち込みを試みますが成功せず、食料不足は人肉を食べるほど深刻な状況になります。
秀吉の要請に応じた経家は家臣を守る為に自分の命と引き換えに開城する事を決めます。
秀吉は経家に帰国を勧めましたが、それを潔しとしない経家は自刃します。
助っ人の経家が責任を取る必要があったのですかねぇ...。
鳥取城の山上の丸に行けなかったのは残念ですが、8時間以上バイクで走行した後に登るのは最初からちょっと無理があったのかも知れません。
出来ればもう一度、余裕のあるスケジュールで挑戦したい所です。
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