静岡県 興国寺城 ― 2019年03月23日
1487年に伊勢新九郎盛時(北条早雲)が今川氏親から富士郡下方荘12郷を与えられて興国寺城の城主となります。
早雲はその後、伊豆国を治めていた足利茶々丸を滅ぼし伊豆国の領主として韮山城に移ります。 武田信虎と今川義元が和睦した翌年の1537年、北条方の城番が武田方に寝返り、興国寺城は今川氏に譲られます。 武田氏、今川氏、北条氏は甲相駿三国同盟を結んでいましたが、武田信玄が同盟を破棄し駿河に侵攻します。 信玄は興国寺城を落とせませんでしたが再び同盟を結ぶと興国寺城を譲り受けます。
武田氏が滅ぶと興国寺城は徳川氏の所領となります。 1607年、当時領主だった天野康景が領内で発生した問題の責任を取らされます。 裁定に不満があった康景は出奔、興国寺藩、および、興国寺城は廃城となります。
早朝の訪問になりました。 興国寺城の駐車場はガラガラで、写真の場所以外にもあるので停める所には苦労しません。 ただ、入り口が分からず、一度通過してしまいました...。
ここは県道に一番近い場所にある駐車場で、恐らく、この辺りは三ノ丸だった場所かと思います。
駐車場から本丸に向かう途中に右側に見てた土塁跡。
恐らく、2ノ丸の土塁かと思います。
今は本丸まで一直線ですが、昔は二ノ丸入り口に桝形虎口があり、直進できる構造では無かったようです。
二ノ丸と思われる付近。 奥に少し盛り上がっている所が本丸。
本丸と二ノ丸の間には空堀があったようですが、今は土塁の存在しか把握できません。
更に奥に見える茶色い部分が本丸の北側を守る土塁で天守台があったと伝わる辺りです。
本丸に到着。
本丸北側の土塁は保存状態と良さそうです。
スタンプは本丸に置かれているこの箱の中にあります。
雨の日はスタンプを押すのが大変そうですね...。
現在、本丸に鎮座している根古屋高尾山穂見神社です。
あまり聞いた事の無い神社ですが、高尾山穂見神社の本社は山梨県にあるようです。
1854年に発生した安政東海地震によってこの周辺は大きな被害を受けました。 1857年、復興への願いから農耕の神である高尾山穂見神社から分祀して祀ったのが始まりのようです。
神社に参拝後、本丸北側の本丸土塁に登ります。
本丸土塁はかなり大きな土塁で、土塁の上には天守台と伝わる石垣があるほどです。
土塁はコの字型をしており、本丸を北側からに囲むような場所にあります。
土塁の上は広々としていて、曲輪と言ってもよさそうな広さです。
本丸土塁の上にある天守台と伝わる石垣です。
実際に天守と呼べる物だったのかは不明ですが、発掘調査により東西2棟の建物があった事は判明しています。
本丸土塁から本丸を眺めた所。 奥に、二ノ丸、三ノ丸と続きます。
ここからみると興国寺城が典型的な連郭式の縄張りである事が解ります。
本丸土塁の北側にある大空堀に下りてみます。
興国寺城は愛鷹山の尾根を利用して築かれており、この大から掘りは尾根を分断するように深く掘り下げてあります。
大空堀の堀底を歩いていると防空壕らしき横穴に出会いました。
城跡の散策で防空壕に出会う可能性は、結構高いように思いますね...。
堀底の先は城跡の外へと続いていました。
ここで引き返して北曲輪に向かいます。
本丸の北側にある北曲輪です。
ここまで来る人は少ないのか、草が伸び放題でした。
時期によってはマダニやマムシが怖いですね...。
北曲輪との事ですが、昔の絵図では「北向一面ニ原」と書かれているように読めるので、どんな場所だったのか想像が難しい所です。 城の背後を守る重要な場所であったとは思いますが....。
北曲輪から、先程歩いていた大外掘が良く見えます。
興国寺城の一番奥まで来たので引き返す事にしましょう。
再び本丸土塁へ...。
案内によると、この土塁の先に石火矢台があったと伝わるようです。
場所的にも何等かの櫓が在ってもよさそうば場所です。
本丸土塁が見事な城跡でした。
ここは北条早雲が戦国大名として成長していく切っ掛けとなった場所であり、戦国時代が始まった場所とも言える所です。
歴史的にも重要な場所であり、興味深い城跡でした。
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