沖縄県 座喜味城 ― 2023年03月19日
今日は、名護市のホテルから座喜味城→勝連城のルートで続100名城を巡ります。
事前に調べたのですが、座喜味城をバスで訪問する場合、多少、歩く事を覚悟する必要がありそうでした。 早朝、名護市内の東江入口バス停から 120系(または 20系)に乗車し、伊良皆に向かいます。 乗車時間はだいたい1時間程度です。
座喜味城には、高志保入り口バス停から行く方法と、座喜味入口バス停から行くルートがあります。
距離的には座喜味入口が一番近いのですが、バスの本数が極端に少ないです。
高志保入り口の方はそれなりの本数があり、徒歩時間もそれほど変わらないので高志保入り口から行く方が楽かも知れません。 バス停の場所が異なりますが、伊良皆からであれば、どちらのルートのバスにも乗り換え可能なので、伊良皆から 29系に乗り換えて座喜味入口で下車しました。
座喜味城へは、ここから20分程度歩きます。
続100名城のスタンプが置かれているユンタンザミュージアムの開館時間前に到着したので、先に座喜味城を散策します。
二の郭のアーチ門
太平洋戦争時、座喜味城には高射砲陣地が築かれた為、かなりの戦争被害を受けたようです。
戦後はボーローポイント射撃場のレーダー施設として使用され、返還されたのは 1974年です。
アーチ門は門としての形状を留めてましたが、周辺の石垣はだいぶ損壊していました。
現在は綺麗に修復されています。
なんか、城と言うより、ヨーロッパの闘技場のような雰囲気です。
二の郭
座喜味城は2つの郭で構成されたシンプルな城です。
二の郭の端の方は帯曲輪のように細長く、湾曲している為に先が見えません。
座喜味城は 15世紀初旬に護佐丸が築城したと伝わります。
護佐丸の曾祖父は今帰仁城の按司でしたが、北山王怕尼芝との戦に敗れます。
今帰仁城から逃れた一族が現在のうるま市付近に勢力を持ち、護佐丸はその一族の子孫です。
年代の違いなのか、座喜味城の石垣は場所によって積み方がだいぶ違います。
左側の二の郭の石垣は野面積みですが、右側の一の郭側は綺麗な布積みです。
二の郭から一の郭の石垣を眺めた所。
修復の痕でしょうか? 同じ場所の石垣でも、中央部分と左端の方では、積み方が違います。
一の郭のアーチ門
中央が一の郭のアーチ門で、左奥に見えるのが二の郭のアーチ門です。
一の郭のアーチ門は崩落しており、戦後に復元した物です。
二の郭のアーチ門は、沖縄に現存する石造りのアーチ門としては最古の物らしいです。
一の郭
形状的な違いからも、二の郭よりも一の郭の方が広いと思いますが、実際のサイズではそれほど差は無いのかも知れません。 想像以上に石垣の曲線が美しいです。
1439年に尚巴志が逝去すると、座喜味城の按司だった護佐丸は中城城に移封になります。
その後の座喜味城は良く分からないのですが、出土品などから 16世紀までは使われていた痕跡があるようです。
寄進灯籠
字がかすれていて読み難いのですが、「奉寄進」の文字が辛うじて読める程度です。
護佐丸の子孫が 1843年に 12代将軍徳川家慶の慶賀使(将軍が代替わりした時に、琉球から派遣される使節)としての役割を果たした時に建立した物です。
灯籠と言うより石碑にしか見えないのですが、経年劣化や戦争で破損したのでしょうか?
礎石建物跡
一の郭では、16 × 14m の建物跡が見つかっています。
瓦は出土していない事から、茅葺か板葺の屋根だったと考えられています。
何の建物だったのでしょう。 護佐丸の屋敷?
一の郭の石垣を上に登って、二の郭側を眺めた所。
本土の城とは明らかに石垣の作りが違います。 中国、朝鮮半島の影響でしょうか?
世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアム
最後にユンタンザミュージアムで続100名城のスタンプを押します。
博物館も見学したのですが、思ったよりもボリュームがあり、この後の勝蓮城への移動が大変なので急ぎ足で見学します。
帰りはバスの本数が多い、高志保入り口から乗車します。 ここから歩いて20分ちょいと言った感じでした。
さぁ、ここから勝蓮城まで、バスで上手く移動できるか?
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