沖縄県 勝連城 ― 2023年03月19日
今回の城巡りはバス旅です。 座喜味城から勝連城にバスで移動します。
高志保入り口のバス停から 62系でコザまで行き、コザで 52系に乗り換えて勝連城跡前まで移動します。 座喜味城ユンタンザミュージアムが開館する前に座喜味城を散策して時間を稼ぐ作成が功を奏し、予定通り 10時23分のバスに乗る事が出来ました。
時間を気にしているのは、11時08分のコザ発のバスに乗れないと2時間半待ちになるからです。
乗り換え時間も 10分程度しかありません。 しかも 62系のバスが遅れ、コザの 52系バス停に着いたのが発車時刻だったので焦りました。 どうやら 52系のバスも遅れていたようで、無事に乗り継ぎ出来ましたが、バス旅は電車ほど時間に正確で無いのでヒヤヒヤします..。
勝連城跡おまわりパーク
予定通り 12時前に勝連城に到着しました。
続100名城のスタンプはここに置かれており、また、勝連城跡の入場券もここで販売しているので、必ず先にここでチケットを購入する必要があります。
これで沖縄3城目。 折り返し地点です。
西原御門への道
受付を通って勝連城に向かいます。
カート用の通路の横にもう1本通路があり、恐らくそちらの方が当時の西原御門への登城路に近い通路のようです。 当時は、石灰岩を敷き詰めた石畳の通路だったようです。
場所的に奥に見える石垣付近が西原御門があった場所でしょう。
西原御門付近
案内とかは無かったですが、西原御門があったのは石垣のあるこの辺りだと思います。
この石垣の通り道としてアーチ門があり、大正時代までは現存していたようです。
この門を通った先が四の郭でした。
門口のカー
「カー」と言う井戸が城の水源だったようです。
ここは、西原御門から四の郭に入ってすぐの場所にある井戸です。
訪問者が手足を清めたり、身分の低い家臣が生活用に使用していたと考えられています。
マチダ・ナケージガー
昔はノロが使用する井戸と考えられていた事から「ヌールガー」と呼ばれてました。
その後の調査で「マチダの御嶽」、「ナケージの御嶽」を縁起に持つ神聖な場所だと言う事が分り、現在は「マチダ・ナケージガー」と呼ばれています。
300年以上の歴史を持つ祈りの場所で、現在でも信仰の対象になっています。
仲間ヌウカー
今までの井戸よりもかなり大きな井戸です。
勝連城の築城年代ははっきりしません。 14世紀初頭に初代勝連按司によって築城されたとの説がありますが、12世紀頃には既に築城されていた可能性もあるようです。
この井戸は、12世紀~15世紀前半にこの地域の鍛冶屋(カンジャー)だった仲間家が使っていたとの説があります。 鍛冶屋の跡は見つかってませんが、仲間家は場所を変えながら武具の製造や修理を行っていたようです。
しかし、四の郭には井戸が多いです。
四の郭から勝連城の中核方面を眺めます。 まるで中世の城のようです。
天気も良く、自然と気分が盛り上りますね..。
圧政を敷いた9代勝連按司の茂知附は、阿麻和利によって倒されます。
阿麻和利は最後の勝連按司となり、その頃の勝連城が一番栄えた時期でした。 この後、阿麻和利は、中城城の護佐丸に謀反の嫌疑をかけ攻める口実を得ます。 謀反の意志が無かった護佐丸は抵抗せずに自害します。 さらに、阿麻和利は主君である尚泰久王を倒そうとしますが、1458年に逆に滅ぼされ、勝連城は廃城となります。
とにかく大きな四の郭ですが、一部が石垣で区画分けされていました。
高い石垣では無いので、この上に塀のような物があったのでしょうか?
この区画には、水の量で豊作・凶作を占った「ウタミシガー」、縁結びの「ミートゥガー」があります。
三の郭
三の郭の石垣は非常に高さのある石垣で、石垣の曲線も美しいです。
長いスロープのような坂道を登って三の郭に入ります。
初期の頃の三の郭は、掘立柱建物が並び、水を溜める設備だったと思われるすり鉢状の遺構も見つかっています。 後年になると、二の郭と三の郭は一体化して行きます。 二の郭は三の郭の舎殿となり、三の郭は儀式を行う場へと変遷します。
こちらが三の郭のすり鉢遺構。
水を溜める設備だったと考えられているのは、表面に粘土が塗られていたからです。
三の郭も結構、広いですが、四の郭と比べるとだいぶ狭いです。
と、言うより、四の郭が広すぎですが..。
奥に見えるのが二の郭の石垣で、右手前が三の郭城門の石垣です。
三の郭の城門の石垣付近で幼児の人骨が見つかっています。 何故、こんな場所に埋葬したのか不思議です。
三の郭城門
四の郭から三の郭に入る時の城門跡です。
城門石垣の内側に4個のミゾのような部分があります。 この部分に門の柱が立っていたようで、三の郭の城門は、アーチ門では無く4本の柱でなる薬医門だたようです。
舎殿跡
階段を登った先が二の郭になりますが、そこには首里城のような多くの柱がある舎殿がありました。
二の郭には舎殿の礎石跡が展示されています。 大きさは正面 17m、奥行 14.5m です。
この辺りの石垣を見ても、後年の二の郭、三の郭は同じ郭の上下段のような関係だったと思いますす。 瓦も出土している事から、舎殿は瓦葺だったと考えられています。
建物の四隅には四角い石積が見つかってますが、役割は解って無いようです。 確かに、今まで見てきた建物の礎石跡では見た事が無いです。
二の郭
郭内の平坦部分は半分程度でしょうか? かなりの部分に樹木が生い茂っています。
さらに、残りの半分を大きな舎殿が占めます。
二の郭は舎殿の為の郭と言った感じで、勝連城の中核的な場所だったと思います。
ウミチムン(火の神)
「ウミチムン」は「三個のかまど石」の意味で火の神が祀られています。
そう言えば、今帰仁城も「火の神」が祀られてましたね..。
沖縄の家では「ヒヌカン」を祀ると聞いた事がありますが、それとも関係しているのでしょう。
勝連城の守り神的な存在でしょうか?
ウシヌジガマ
「ウシヌジ」は「身を隠し、凌ぐ」の意味で、「ガマ」は洞窟の事です。
身に危険が及んだ時の避難所のような場所です。 戦時中は防空壕としても使用されました。
1458年に勝連城が首里王府軍によって落城に追い込まれた時、阿麻和利はここから読谷村に逃れたとの伝説がありますが、この洞窟は外部には通じていないようです。
長いスロープのような通路を通って一の郭に向かいます。
今は階段が設置されていますが、雨が降ったらこの石畳を登るのは厳しそうです。
三の郭もそうですが、長いスロープのような入り口は防御用としてはどうなんだろうと思いました。
ただし、敵の侵入を防ぐ為、階段の幅は上に行くほど狭くなるように作られています。
また、スロープは一の郭の石垣の沿って配置されているので、隠れる場所が無いようになっています。
一の郭
岩盤を削って平坦にしているので、かなり大変な工事だったと思います。
瓦が出土している事から、瓦葺の建物が存在していました。 勝連城以外の沖縄の城で瓦葺建物の痕跡が見つかっているのは、首里城と浦添城だけのようです。
入り口の門はアーチ門だったらしいので、周辺の石垣はだいぶ低くなっているようです。
玉ノミウヂ御嶽で地元の人が礼拝していたので、周辺の散策をして引き上げる事にしました。
「沖縄」って感じの海が良いですね..。
また来れると良いのですが..。
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