三重県 津城2023年10月08日

1568年に織田信長の伊勢侵攻が始まり、1570年に信長の弟・信包が津城を築城しました。
それよりも前に長野氏の分家、細野藤光が築城した安濃津城があったようですが、小規模な砦程度の物だったと考えられています。 その事から、安濃津城が津城の始まりとしている場合も多いようです。
本能寺の変により信長が討たれると、信包は豊臣秀吉の配下に入ります。 1594年に信包は丹波国柏原に転封し、代わりに富田知信(一白)が津城に入ります。
知信の子、信高は関ヶ原合戦で東軍に付きますが、西軍に包囲されて開城します。 しかし、戦後は戦功が認められて城主に復帰します。 1608年に信高が転封になると藤堂高虎が津城に入り城を大幅に改修します。 以降、幕末まで藤堂氏が城主になります。

津市役所駐輪場
訪問当日が「津まつり」「安濃津よさこい」の開催期間だったようで、市役所前が通行止めでした...。
バイクを押して津市役所の駐輪場になんとか到着しました。
写真は帰り際に撮った駐輪場の様子です。 多くの人が会場に移動した後なので大分落ち着きましたが、それまでは人がごった返してました...。
津市役所駐輪場

高山神社
続100名城のスタンプが置かれてる高山神社を先に参拝します。
津城の城下町を発展させた祖とも言える、藤堂高虎を祀る神社です。 元々は城内にあったようで、一般人も参拝できるようになったのは明治時代に入った 1877年からのようです。
津城本丸に遷座した後に戦災で焼失。 1947年に再興され、1969年に現在の場所に移ります。
「高山」は、高虎の諡号「寒松院殿道賢前伊州羽林高山権大僧都」が由来のようです。
津城・高山神社

津城・高山神社・社殿

スタンプはここの社務所に置かれています。
津城・高山神社・社務所

続100名城のスタンプを押しに行ったら武装した武者集団と鉢合わせになりました。
高虎の時代行列は高山神社の奉納行事のようなので、「津まつり」のパレードの前か後に神社に集まった所だと思います。
ゆっくり見学したかったですが、この後の予定もあるので津城の見学を始める事にします...。
津城・高山神社・時代行列

天守台
何気に「カッコいいなぁ」と思って撮った写真でしたが、後で位置関係を調べてみたらここが天守台でした。 津城は、天守台のみで天守は無かったと考えられてましたが、三重天守、二重小天守と思われる建物が描かれた、2代目藩主藤堂高次の時代と思われる絵図が見つかりました。
少なくとも、江戸時代初期には天守に近い建物が存在していた可能性が高いようです。 恐らく、手前の石垣の上に三重の天守台があり、奥の少し出ている部分に二重の小天守台があったのでしょう。
さらに奥に見える出っ張りは埋門の石垣です。
津城・天守台

本丸側から天守台を眺めた所。
雑草が多くて、形状が良く分からないですね...。
津城・天守台

埋門跡
1639年に後から作られた出入り口のようです。
天守らしき建物が描かれた絵図では、埋門は多門櫓と同化している感じでした。
石垣を良く見ると、向かって右側は野面積みですが、左側は打込み剝ぎです。 門の左右で技法が変わっています。 門を作った時に石垣の淵部分を算木積にしたのでしょう。
津城・埋門跡

月見櫓跡
ここの石垣は 1944年の東南海地震で崩落しており、その後の修復で積み直されています。
近年は崩落した石垣をかなり正確に積み直しますが、当時の修復はそこまで考慮されておらず、忠実な再現は出来てません。 良く見ると、石垣の間に補強用のモルタルが注入されています。
街中の石垣なので、安全性の方が優先されたのかも知れません。 今だったら歴史的遺構の保全も重視されるので、このような修復はしなかったかも知れません。 ただ、都市部で発生した震災の場合、他にも優先すべき復旧作業があるので、難しい選択に迫られるかも知れません。
津城・月見櫓跡

津城・月見櫓跡

模擬三重櫓
元々、東多門櫓があった場所に建てられた鉄筋コンクリート造りの疑似三重櫓です。 外観は全国の城を参考にしたオリジナルデザインです。 模擬三重櫓は 1958年に建てられ、2006年にリニューアルされています。 訪問時は内部見学が可能でしたが、普段は中には入れないと思います。
ちょうど模擬三重櫓の裏側辺りに東鉄門があり、写真左側は内枡形になっていました。
津城・模擬三重櫓

津城・模擬三重櫓

丑寅櫓跡
層塔型の三重櫓があった場所です。 戌亥櫓と共に津城最大の建物だったと考えられています。
ただ、天守台の上に建物があった可能性が出て来たので、数年後には通説が変わっているかも知れません。 この隅櫓は多門櫓と連結していたようです。
津城・丑寅櫓跡

丑寅櫓の方から戌亥櫓を眺めた所。
この石垣の上に多門櫓があったと思います。
石垣の上から水堀が見えました。 内堀のほとんどは埋め立てられてしまい、今では本丸と西之丸付近に少し残る程度です。
津城・多門櫓跡

本丸跡
昔の資料により、御台所、祭所、玄関前長屋、御書院などの建物があったようです。 多分、ここは当時の政治的な中心部だったのでしょう。
廃城後、高山神社が鎮座していた時期もありました。 現在は普通に公園ですね...。
津城・本丸跡

藤堂高虎像
本丸の中心近くに藤堂高虎像がありました。 高虎は築城の名人として有名な武将です。
また、藤堂高虎は何度も主君を変えます。 最初は浅井長政で、長政が織田信長に滅ぼされると長政の旧臣を転々とした後に豊臣秀長に仕えます。 秀長の死後は豊臣の家臣を経て徳川家康の家臣となります。 主君替えは高虎の問題では無い場合が多く、戦国の世渡りの難しさを感じます。
津城・藤堂高虎像

西鉄門虎口跡
ここが本丸と西之丸を分断する枡形虎口だった所です。
だいぶ形状が変わっているので、当時の姿が想像し難いのですが、この位置からだと、多分、正面を遮るように西鉄門があったのだと思います。
背後に伊賀櫓があったはずなのですが、どの辺りだったのか良く分からなかったですね..。
津城・西鉄門虎口跡

戌亥櫓跡
奥の石垣の上が三層櫓だった戌亥櫓があった場所です。 石垣の下の方には犬走りも見えます。
石垣の上には多門櫓が連なっており、戌亥櫓に連結されていました。
津城・戌亥櫓跡

西之丸
現在は日本庭園になってますが、この辺りが西之丸だった場所です。
昔は西鉄門の虎口で本丸と分離され、土橋で繋がっていました。 散策していた時は本丸と分離された独立した郭だとは気が付きませんでした。
本丸と西之丸の間にあった土橋は土塀で囲まれた少し変わった物だったようです。
城だった頃は番所や倉庫があったようで、廃城後は藤堂家の邸宅がありました。
津城・西之丸

玉櫓跡
西之丸の内郭大手門付近にあった隅櫓が玉櫓と呼ばれた櫓で、弾丸などを保管する武器庫として使用されていました。
犬走りは明治時代以降に石垣の修理と崩落防止のために追加された物らしいです。 もしかしたら、戌亥櫓付近の犬走りも当時の物では無いかも知れないですね...。
津城・西之丸玉櫓跡

津城・西之丸玉櫓跡

二階門跡
西之丸の内郭大手門は内桝形を構成しており、この辺りに二階門と呼ばれる櫓門があったようです。 ただ、位置関係がっきりせず、土橋側に道を塞ぐようにあったのは高麗門で、左側の石垣から手前に向かって二階門があったのかも知れません。
石垣の裏側に回ると石垣が階段状になっていました。
津城・西之丸二階門跡

津城・西之丸二階門跡

入徳門
藤堂高兌が 1820年に藩校として有造館を設立します。 その藩校の門が入徳門です。
明治時代に入った 1871年に有造館は廃校となりますが、その後に設立した小学校の門としても使用されていました。 戦災を逃れたこの門は戦後も場所を転々と変えてましたが、1971年に現在の場所に移築され保存されています。
津城・入徳門

一通り散策を終えて市役所前の内堀まで戻ってきました。
少し雨が降ってきたので雨具を着て次の城へ出発します。
もう少し天気がもってくれると助かるのですが...。
津城・水堀