長崎原爆資料館、爆心地公園2023年05月04日

1945年 8月 9日 11時 2分。 広島に続く、2発目の原子爆弾が長崎に投下されます。
実は、本来の投下目標地点は小倉でした。 重要な工業地帯であった北九州市は空襲により甚大な被害を受けてましたが、小倉だけは原爆の威力を評価する為に、空襲せずに温存されていました。
原爆投下当日、小倉上空は雲が立ち込めており、旋回しながら天候の回復を待ちましたが、燃料切れが迫って来た為、長崎に原爆が投下されます。
長崎も雲に覆われていたのですが、雲の切れ目から原爆投下に成功します。
長崎で被爆された人々は、もう少し雲に覆われていたら助かったかも知れないと思うと、なんとも言えない気分になります。

長崎原爆資料館
1955年に開館した長崎国際文化会館の原爆資料センターが前身でした。
しかし、建物の老朽化や、展示スペースが手狭となり、1996年から現在の場所に長崎原爆資料館として会館します。
館内には、長崎における原爆被害の資料などが展示されています。 来場者の半分くらいは外国人かと思うくらい、多くの外国人が訪れていました。
長崎原爆資料館

長崎原爆資料館

原爆が投下された 11時 2分で止まった柱時計。
爆心地から 800m ほど離れた坂本町の山王神社付近の民家にあった物です。
広島では爆心地から 3km 以内の木材は黒焦げになったので、焼けずに残った事が奇跡に思えます。 起伏の多い長崎では、僅かな場所の違いが熱線による被害に大きな差が出たのかも知れません。
長崎原爆資料館・柱時計

館内には原爆被害の惨状が展示されています。
その中の一つとして、浦上天主堂の被害状況が再現されていました。
浦上天主堂は爆心地から 500m ほどの距離にあり、壁の一部を残して建物は倒壊します。
建物内には2人の神父と数十人の信徒がいましたが全員死亡しました。
壁の煉瓦や彫像も焼け焦げており、浴びた熱線はかなり高温だったと思います。
なお、壁の一部は爆心地公園に移築されています。
長崎原爆資料館・浦上天主堂の再現

長崎原爆資料館・浦上天主堂の再現

高温で溶けたビン。
見るのがつらい資料ばかりですが、これが原爆の現実です。
こんなのが当たり前のように戦争で使われたら地球が壊れますね...。
一通りの展示物を見学して資料館を出ます。
長崎原爆資料館・溶けたビン

平和の母子像
長崎原爆資料館から爆心地公園に行く途中にありました。
1987年に設置されたようです。
地獄絵図としか言いようが無いモニュメントです。 爆心地の周辺には瓦礫といっしょに黒焦げの死体が散乱していたようです....。
長崎原爆資料館・平和の母子像

被爆当時の地層
爆心地公園の端の方に、被爆当時の地層が見学できる場所がありました。
長崎に投下された原子爆弾(ファットマン)では約 15万人が死傷しました。
よく見ると、当時の日用品らしき物が埋もれています。
ここは爆心地に非常に近く、爆心地の地表温度は 3000 ~ 4000度と言われてます。
人間なんて、ひとたまりも無いですね...。
だいぶ地中深いので、爆心地公園は盛土したのかも知れません。
爆心地公園・被爆当時の地層

原子爆弾落下中心地碑
爆心地は真上から圧力がかかったらしく、他の場所と違って電柱や樹木が倒れずに残っていたようです。 この付近には 300世帯が生活していたようですが、1人だけ生存者がいたようです。 当時9歳だった少女はここから 100m ほど離れた場所の防空壕にいたようですが、一緒にいた妹2人は助かりませんでした。
少女が見た原爆投下後の世界は、見慣れた風景が一変した地獄絵図だったと思います。
爆心地公園・原子爆弾落下中心地碑

旧浦上天主堂の遺壁
長崎原爆資料館で再現されていた旧浦上天主堂の遺壁の実物です。
新しい天主堂の再建の為、1958年に聖堂の南側の一部が移築されました。
上にあるのは、フランシスコ・サビエルと使徒の石像です。
壁ごと残せなかったのは残念ですが、これだけでも伝わる物があります。
爆心地公園・旧浦上天主堂遺壁

爆心地公園・旧浦上天主堂遺壁

爆心地公園・旧浦上天主堂遺壁

この後、出島に行きたかったので、そのまま近くの平和公園駅に行ってしまいました...。
朝から歩きっぱなしだったので疲れていたのでしょう..。有名な平和祈念像を見忘れていた事に気が付いたのは家に帰ってからでした。
まぁ、軍艦島とかにも行ってみたいし、また長崎に来る理由があるのも悪くは無いかと...。