愛媛県 湯築城 ― 2015年09月20日
湯築城は南北朝時代初期には河野氏の居城として存在していたようです。
河野氏による伊予支配は長く続きましたが、秀吉の四国平定の際、1585 年に河野通直が小早川隆景に城を明け渡した事により伊予支配が終了しました。
道後公園に入ると湯築城資料館の反対側に駐輪場を見つけたのでそこにバイクを止めます。 資料館で 100 名城のスタンプを入手後、早速散策を開始します。
土塀
資料館から復元された武家屋敷へ向かう途中、土塀も復元されてました。
発掘調査では土塀の基礎部分のみ見つかっており、道路側で切れている部分を入り口にしたそうです。 基礎以外の部分は周辺の民家や石手寺の資料などを参考に復元しました。
武家屋敷
2軒の武家屋敷が復元され、当時の暮らしぶりや中世の道具などが展示されています。 どちらの武家屋敷も発掘調査で判明した基石の配置や当時の資料を元に復元されました。
内堀と土塁
内堀を掘った土を内堀の外側に土塁として盛っています。 内堀の最深部は約 3m あるそうなので結構深いです。 当時から水堀だったのでしょうか?
発掘調査により内堀の下層から火葬が行われた跡が見つかったそうです。
外堀の土塁
外堀の内側にも土塁が存在し、こちらも外堀を掘った時の土を盛ってつくったそうです。 外堀の土塁は断面を観察する事が出来る場所があり、興味深いです。 人力でこれだけの土を盛るのは大変な作業だったと思います。
家臣居住区の池
家臣居住区跡では池の跡も見つかっており、周辺には池を望む建物跡の存在も確認されている事から庭園があったと予想されてます。
土坑
内堀土塁の裾に作られた排水溝を壊して作られた土坑跡です。
いわゆる「ゴミ捨て穴」で、土坑には宴会などで使用した物が捨てられており、当時の皿や杯などが出土してます。
遮蔽土塁
外堀と内堀の一番狭い所に作られた土塁で、大手門から武士の居住区を遮るように築かれています。 土塁の右側にある溝は当時の排水溝跡になります。
本丸があった山の裾野には巨大な岩からなる岩場があります。
庭園のようにも見えなくもありませんが、多分、自然にできた岩場だと思います。 (この岩場についての説明が見当たらないので...。)
この先にある岩崎神社の脇から本丸跡を目指して山を登ります。
現在は本丸跡には展望台が作られてます。 展望台からよく見ると松山城が見えました!
当時の本丸からもこの眺めが見れたのかと思い調べると、1587 年に福島正則が城主になると居城を他に移したため湯築城は廃城になります。 松山城の築城開始は 1602 年なので、当時の城主はこの様な眺めは見れなかったようです。
二の丸跡
位置関係的に、現在の丘陵広場の辺りが二の丸だったと思います。
当時を偲ばせる物は何もありませんが...。
土塁や堀は綺麗に残ってますが、本丸、二の丸は当時の痕跡がほとんど残ってないみたいで残念でした。 武家居住区の発掘・復元がひと段落付いたら、本丸、二の丸も整備して欲しいです。
少し休憩して、本日最終目的地の松山城へ向かいます。
















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