岡山県 備中松山城の武家屋敷2022年05月04日

城見橋公園駐車場から武家屋敷館無料駐車場に移動したのですが、細い道での混雑を回避する為に行きと違う道に係員に誘導されてしまい、城下町で迷ってしまいました。
何処をどう通ったのか判りませんが、なんとか目的の駐車場に到着。
駐車場の広さとして十分だと思います。 元々、武家屋敷まで見学する人は意外と少ないのかも知れません。

旧折井家
武家屋敷通りの両側は土塀で囲まれており、美しい街並みでした。
旧折井家は天保年間(1830 ~ 1844年)に建てられた建物で、 200石前後の武士が住んでいました。
建物は母屋と長屋門から構成されています。 敷地内には資料館もあります。
200石なので、それなりの身分だったと思いますが、経済的な余裕はそれほど無かったようです。
備中松山城・旧折井家・長屋門

玄関
リアルなマネキンが玄関でお出迎えです。
このマネキン、妙にリアルな上に動くのでちょっと不気味です。
備中松山城・旧折井家・玄関

次の間
奥座敷に接してる部屋で、使用人の待機場所や会の準備をする場所として使用されてました。
次の間の奥には縁側を挟んでトイレがあります。
昔のトイレは「離れ」の方が良さそうですけどね...。
備中松山城・旧折井家・次の間

備中松山城・旧折井家・雪隠と次の間

居間
武家の屋敷ですが非常に質素です。
居間に畳は無く、板間の上に茣蓙が敷かれてました。 冬はとっと寒そうです。
母屋の間取りは八畳、六畳が各2部屋、四畳半1部屋、女部屋、台所、土間。 結構、広いです。
女部屋は良く分かりませんが、多分、使用人が寝泊りした場所でしょう。
備中松山城・旧折井家・居間

庭付き戸建。
経済的なゆとりは無かったとの頃ですが、貧しさは感じません。
現代でも、この規模の家に住むのは、それなりの経済力が必要です。
中松山城・旧折井家・庭

旧埴原家
次の武家屋敷は埴原家です。 120 ~ 150石の武家屋敷との事なので、折井家よりは少し格下の武家屋敷のようです。 埴原家は、近習役や番頭役を勤めていたようです。
旧埴原家は、藩主板倉勝政の生母の実家でもあり、他の武家屋敷とは違い寺院建築や数寄屋風の要素が取り入れられています。 江戸時代後期の建物です。
備中松山城・旧埴原家

玄関
禄高的には先ほどの折井家の方が上ですが、玄関はこちらの方が立派に見えます。
藩主生母の実家との事なので、同格の武家屋敷とは少し違うのかも知れません。
玄関の梁には家紋を彫った蟇股まであります。
備中松山城・旧埴原家・玄関

内玄関
玄関から入って、だいたい四畳半程度の広敷を通ると内玄関があります。
120 ~ 150石の武家屋敷で使用人用の内玄関は一般的なのでしょうか? たしか、折井家には内玄関は無かったと思います。
備中松山城・旧埴原家・内玄関

土間
内玄関の先が土間です。
土間には駕籠が展示されてました。
日常的に駕籠を使うほど裕福だとは思えませんが、駕籠を置けるほどの広さがあります。
備中松山城・旧埴原家・土間

台所
土間から台所に入ります。 奥に見えるのが「次の間」でその奥に少し見えるのが「奥座敷」だと思います。 間取りは、玄関、内玄関、広敷、次の間、座敷、奥座敷、土間、台所と言った感じです。
そう言えば、商家と違い武家屋敷は平屋が多いですね。 何か理由があるのでしょうか?
備中松山城・旧埴原家・台所

こちらの物件も庭付きです。
備中松山城・旧埴原家・庭

備中松山城・旧埴原家・庭

頼久寺
最後の訪問先が頼久寺です。 頼久寺は臨済宗の寺院で正確な創建年代は不明です。 1339年に足利尊氏によって再興されたと伝わるので、もっと前から前身となる寺院は存在していたと思われます。 関ヶ原の戦い後、備中松山城の城主となっていた小堀遠州は松山城が荒廃していた為、頼久寺を仮の住まいとしていたようです。
備中松山城・頼久寺

山門
頼久寺通りから階段を登った先に山門があります。
どことなく食い違い虎口のような構造になっており、城近くの寺院は防御施設的な役割を持つ場合もあるので、意図的に砦のような構造にしているのかも知れません。
備中松山城・頼久寺・山門

本堂
頼久寺の伽藍は 1574 ~1575年の備中兵乱で焼失し、毛利氏の家臣、天野氏によって再興されています。 年代的に、小堀遠州が住んでいたのは天野氏が再興した物でしょう。
頼久寺は 1839年の火災でも焼失しているようなので、現在の本堂はそれほど古い建物では無さそうです。
備中松山城・頼久寺・本堂

薬師堂
本堂左の火灯窓の建物が薬師堂です。
建物の詳しい年代などは分かりませんが、江戸後期の火災の事を考えるとそれ以降の建物でしょう。 薬師堂なので、祀られているのは薬師如来でしょうか?
備中松山城・頼久寺・薬師堂

庭園
ここの一番の見所は庭園でしょう。
小堀遠州がここを居館としていた頃に作庭されたと伝わりますが、意外な事に小堀遠州が作庭に関わったという明確な資料は無いそうです。  江戸時代初期の手法が現在まで残るとの事なので、遠州もこれに近い風景を眺めていたのかも知れません。
こういう場所は落ち着きます。 次の訪問先は鬼ノ城。 遠州が眺めたかも知れない風景をしばらく眺めていく事にしましょう..。
備中松山城・頼久寺・庭園

備中松山城・頼久寺・庭園

備中松山城・頼久寺・庭園

備中松山城・頼久寺・庭園

庭園の良し悪しを理解している訳では無いけど、こういう場所が落ち着く事は確か。
自分の好きなように解釈して楽しめば結構。


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