大分県 中津城2022年04月30日

2年連続のゴールデンウイーク移動自粛要請によりキャンセル続きでしたが、今年、ようやく本格的な100名城巡りが再開できます。
まずは大阪からフェリーに乗って別府に移動。 そこから中津城を目指します。
フェリーに乗るバイカーの数も例年通りと言った感じでした。
大阪で台風のような大雨に出くわし、乗船口にたどり着くのに苦労したので早めに休む事にします。
さんふらわ・デッキ内

さんふらわ・こばると

昨日の悪天候とは打って変わって良い天気です。
3年ぶりの九州です。 ただし、今回は中国地方を中心に100名城、続100名城を回るので、九州は、ほぼ素通りします。
さんふらわ・こばると

中津城は、黒田孝高(如水)が豊臣秀吉から中津16万石を拝領し、1588年に築城した平城です。
元領主であった城井鎮房は秀吉の命により、伊予国へ移封されますが、それを不服として反乱を起こします。 黒田氏の時代は戦が多く、築城は未完のまま筑前に転封となります。
中津城の築城は、その後入封した細川忠興によって完成します。 1632年、細川氏が熊本に転封すると、小笠原長次が入封して中津藩が成立、1717年以降は奥平氏の居城となり、明治維新まで続きます。

北門付跡付近
当時は周辺が石垣で囲まれ、写真を写している位置付近に北門があり、奥の左側に樫木門があったようです。 この辺りは虎口だったようですが、ほとんど面影がありません。
中津城・北門付跡付近

武家屋敷跡
北門の横にあった武家屋敷の跡です。
1829 ~ 1833年頃の地図には竹下義兵衛の屋敷が記載されています。
2008年頃までは建物も現存していたようですが、痛みが酷かった事から解体され、礎石のみが保存展示されいます。 やはり、それなりの状態でないと古い建物を保存するのは難しいようです。
中津城・武家屋敷跡

二之丸跡
現在の二之丸公園~中津法務総合庁舎付近は二之丸だった場所のようで、御用屋敷や長福寺などがありました。 長福寺では、息子、忠利が亡き母ガラシャの為にミサを行ったようです。
廃藩置県前の明治3年(1870年)には既に御殿以外の建物は取り壊されていたようす。
中津城・二之丸跡

中津川側の石垣
堤防を越えて川側に下りると黒田時代に築かれた石垣を見る事ができます。
中津城付近では、今での堤防の一部として当時の石垣が使われているようです。
左手前辺り方の石垣が、黒田氏が古代の唐原山城から転用した石材なのかも知れません。
中津城・川側の石垣

模擬天守
1964年に建てられた鉄筋コンクリート製の模擬天守で、外観は萩城天守をモデルにしているとの事。
黒田氏、細川氏の時代には天守があったようだが、江戸時代の絵地図には天守の記載はありません。 鉄門付近に代役のような三重櫓があったようです。
多分、資料が残って無いので、どんな天守だったのかは不明なのだと思います。
模擬天守の内部は資料館として公開されています。
中津城・天守

模擬天守の場所は、江戸時代には二重櫓でした。
模擬天守を建てる為に、石垣を少し継ぎ足しているらしく、天守下の石垣の色が少し違います。
多分、その下の方が細川氏時代の石垣だと思います。
中津城・天守

中津城・天守

先ほどの石垣を少し中津川の方に移動すると、黒田氏の石垣と細川氏の石垣の境目が見えます。
草が生えていて分かりにくいのですが、写真中央部に斜めの境目があります。
右側が黒田氏の時代で、左側が細川氏が後から積んだ石垣です。
黒田氏の石垣は加工された石材が使用されており、時代的には新しいはずの細川氏の石垣は自然石を使った野面積みのようです。 ちょっと不思議な感じがします。
中津城・石垣

薬研堀
本丸と二之丸の間にある水堀は中津川と繋がっています。
水堀なので見た目には判断できませんが薬研堀だそうです。 そう言えば、水堀って、堀底の形状を意識した事が無いですね..。
手前にある二重櫓も模擬櫓です。
中津城・薬研堀

本丸の敷地は神社になっています。
天守横にあるのは奥平氏中興の祖、奥平貞能、信昌、家昌を祀る奥平神社。
近くには、反乱を鎮圧する為に誅殺した城井鎮房を祀る城井神社もあります。
誅殺された側と、誅殺した側の子孫を祀る神社が同居している訳ですね...。
中津城・奥平神社

模擬天守とはいえ、なかなかの出来です。
中津城・天守

天守から二之丸側を眺めた所。
下に見えるのはバイクを駐車した第3駐車場。
多分、昔は御殿があった場所で、廃藩置県後、御殿は中津支庁舎として使用されました。
御殿は残念ながら西南戦争で焼失しています。
中津川の先には海が見えます。 輸送拠点としては理想的な場所です。
中津城・第3駐車場

反対側の本丸側を眺めた所。
直ぐ右下に見えるのが奥平神社で、その奥に見える屋根は中津大神宮。
奥行は無さそうですが、意外と幅が広そうです。
中津城・本丸

関ヶ原の戦いの時、黒田孝高は、ここ中津城で浪人をかき集めて九州征圧の戦いに出ます。
関ヶ原の戦いがあっけなく終わってしまった為、島津家との家康の間で講和が成立。
孝高の目的が天下取りだったのかは分りませんが、秀吉も恐れた底の見えない人物です。