秋田県 脇本城跡 ― 2023年08月11日
脇本城は、秋田県男鹿市にある続100名城の一つです。
脇本城の築城者、築城年代は不明ですが、出土品などから 15世紀頃には機能していたと考えられています。 1570年頃には安東愛季が男鹿を支配しており、 1577年頃、愛季は自身の城だった湊城、檜山城を息子たちに任せ、自身は脇本城を改修して居城とします。 なお、安東氏は後に秋田氏へと改名しています。
脇本城の廃城年代もはっきりしないようですが、1602年、家督を継いでいた秋田実季が宍戸(茨城県)へ移封になった時との説があります。
脇本城駐車場
脇本城の駐車場は国道 101号沿いにありますが、秋田市の方から来ると中央分離帯のある道路の反対車線側なので分かりにくいかも知れません。
国道脇の駐車場以外にも、林道を少し登った菅原神社前や、史跡脇本城跡案内所付近にも数台停められます。 今回は菅原神社前にバイクを停め、神社を参拝してから城を見学する事にします。
菅原神社
長い階段を登った先に菅原神社が鎮座してました。
美しい彫刻が施されており、思ったよりも立派な社殿でした。
1591年に実季が脇本に菅原神社を建立します。 なお、安東氏はこの年に秋田の姓を名乗ります。 菅原神社は 1653年に現在の地に移されたようなので、神社は廃城後も近隣住民の信仰の対象になっていたのだと思います。
バイクを停めた駐車場に戻り、歩いて林道を登って続100名城のスタンプが置かれている史跡脇本城跡案内所に向かいます。 時折、木の隙間から見える日本海が美しすぎます。
この、脇本城への林道は、「天下道」と呼ばれる中世に整備された古道のようです。 昔は船川・北浦方面と秋田方面を繋ぐ重要な道路だったようです。
菅原神社から史跡脇本城跡案内所は、思ったほど離れてませんでした。
史跡脇本城跡案内所
中は無人で、窓や扉が締め切られていたので物凄い室温でした...。
扉を開けっぱなしにしても室温は、まったく下がりません。 危険な室温です。
手短に続100名城のスタンプを押して、パンフレットを入手したら先に進む事にします。
なお、この先に見える道は、昔の天下道では無く、もっと右側の山の中の方を通っていたようです。
南側下段の郭
天下道を挟んで南側にある郭群の下段にある郭です。
要するに、脇本城の中を主要幹線道路が通っていた事になります。
奥に見える丘のような所が上段の郭があった場所で、かなりの落差があります。
南側下段中央の郭から海の方を眺めた所です。
とにかく、景色が素晴らしいです。
山の反対側は急な斜面で、その先は日本海になります。 防御や監視をする場所としては、なかなかの立地条件のようです。 この郭からは掘立柱建物の跡や、郭周辺の柵の跡などが見つかっています。 また、火縄銃の弾や、陶磁器なども出土しています。
写真左側の小さな立て札がある場所は井戸があった場所です。 脇本城には数多くの井戸があったようです。
南側上段の郭から海の方を眺めた所です。
多分、海岸沿いに見える建物が密集している付近が脇本の市街地だと思うので、昔の城下町があった場所だと思います。 昔も、こんな感じに城下町が見えたのだと思います。
パンフレットの地図を見ると、先ほどの天下道が現在の男鹿街道に繋がっており、城下町の中を通っていたのだと思います。
南端の郭
奥に人が立っている場所が、脇本城南端の郭です。
もっと先の海の方まで城が続いていたようですが、崖が崩落して失われているようです。
元々一つの郭だった所を盛土して2つに分けたようなので、奥の一段高い所が後から盛土して作られた郭だと思います。
発掘調査により、この郭から一列に並んだ柱の跡なども見つかっているようです。
この辺りの土塁跡は、かなりハッキリとしています。
脇本城の西側には、南北 250m に渡って大きな土塁が築かれています。
しかし、身の危険を感じる気温です...。
直射日光を遮る物が無く、タオルを頭にかけて歩いてますが、刺さるような日差しです。
汗が止まらないので、水を飲みながら散策を続けます...。
脇本城には自動販売機など無いので、夏場に訪問する場合は先に飲料水を買っておかないと大変な事になります...。
南端部分からの眺め。
しかし、秋田の海は、もの凄く綺麗です。
日本海らしい荒れた感じも無い穏やかな海です。 男鹿半島のおかげでしょうか?
天下道の方に引き返す事にします。
南端の郭の方から天下道の方を振り返った所。
ここからだと、脇本城の南側縄張りの形状が良く分かります。
上下2段に分かれており、さらに上段の方も階段状に郭が区分けされています。
奥に見える高台は、南側上段の一番高い郭の一つ手前の郭だと思います。
近くに来ると郭ごとの段差の大きい事がわかります。
この辺りからの見渡しは非常に良く、海上からの行動はここから丸見えです。 脇本城が陸上と海上の交通をおさえる要所だった事が良くわかります。
最初に通ってきた林道の方に戻ってきました。
奥に見える複雑な地形が天下道を挟んだ北側の郭です。
舗装されている林道は後世に造られた物で、昔の天下道ではありません。 天下道は林道よりも、もう少し奥の方になります。
天下道
時期的に草が多くてわかりにくいのですが、ここが天下道だった場所です。
天下道を歩くのであれば、草が少ない春先か秋に来た方が良さそうですね...。
多分、この先を進むと菅原神社の方に抜けるのだと思いますが、途中で引き返してきました。
今考えれば、バイクは菅原神社前の駐車場に停めたので、帰りにここを通っても面白かったかも知れません。
北側の郭(内舘)
天下道と思われる場所から「内舘」と呼ばれる北側の郭を眺めた所です。
かなりの高低差がある事がわかります。
当時の主要道路だった天下道は、南北の郭の間に造られた堀底を歩くような感じだったようです。
写真は北側の郭から西側奥へと連なる郭群を眺めた所です。
写真では分りにくいですが、この先には大きな空堀があります。
多分、この辺りが一般的な城では本丸と呼ばれる場所でしょう。
当時は屋敷とかもあったのだと思います。
東側は 6m の落差がある土塁があり、その手前に井戸跡がありました。
壁のような威圧感があります。
脇本城が落城した時に、どこかの井戸に金の茶釜を投げ入れたとの伝説があるようです。
脇本城の落城に関しては、案内所のパンフレットにもあまり書かれて無いので、正直言って良く分からないです。 愛季の死後にお家騒動のような湊合戦があり、実季は檜山城に籠城したようなので、その時の事なのでしょうか?
土塁の上に登った所。
結構、登るのが大変でした...。
北側東の郭
この辺りが城主の居館などがあった城の中心部と考えられているようです。
ここは、天下道からだと見上げるような場所であり、威厳を見せつけるにも都合が良い場所なのかも知れません。
ここから海の方を眺めると、城下町だった脇本本郷の街並みが良く見えます。
城があった頃は八郎潟が干拓されて無かったので、海岸線の反対側も湖でした。
ここからの眺めは、城だった頃とはだいぶ違っているかも知れません。
北側の郭を引き返し、空堀を越えて北側西の郭から内館側を眺めた所です。
ここからだと、内館側の形状が良く分かります。
この先を更に西に進むと馬乗り場と呼ばれる場所に行けるのですが、気温が高すぎてやめておきました。 直射日光を浴びながら散策するには危険が気温です...。
熱中症になるリスクもあるので、今回の見学はここまでにしておきます。
縄張りの状態は良くの凝っているようですが、脇本城は広大なので真夏は避けた方が良いかも知れません。 とは言え、冬に来るのはもっと無理なので、散策のベストシーズンが短いのかも知れませんね...。
最近のコメント