福岡県 小倉城 ― 2022年04月30日
1569年、毛利氏がこの地に築城したのが小倉城の始まりです。
関ヶ原の戦い後の 1602年、この地に入った細川忠興によって小倉城の大規模な築城が行われ、城下町も発展しました。 1632年、細川氏が肥後に移封すると小笠原忠真が入城し、幕末まで小笠原氏の居城となります。
1837年、火災により天守、本丸御殿を消失。 本丸御殿は再建されますが、天守は再建されませんでした。 幕末の第2次長州征討で敗北すると、自ら城に火をつけました。 その時、ほとんどの建物は消失します。
都心部の城を訪問する時に、だいたい苦労するのはバイクを止める場所です。
とりあえず、勝山公園駐車場に行きましたが「バイク利用不可」だったので、松本清張記念館で聞いてみた所、リバーウォークのバイク用駐輪場を教えてもらったのでそこに停めました。 駐輪場はリバーウォークと小倉教会の間にあります。
周辺をバイク利用不可の駐車場だけにしておいて、バイクを止める場所が無いのに駐禁だけは取り締まると言うのは、いいかげん勘弁して欲しいです...。
八坂神社・東楼門
リバーウォークの駐輪場を出ると目の前にあるのが八坂神社の東楼門です。
細川氏が小倉城を築城した後の 1617年、鋳物師町に八坂神社の社殿が建てられました。 神社自体は 870年頃から存在していたようです。
創建当初は小倉祇園社感応院と称していたようですが、神仏分離令により 1868年に八坂神社に改称され、昭和9年(1934年)に現在の場所に移ります。
移築したので無ければ、東楼門は昭和時代の建物なのかも知れません。
八坂神社・社殿
御祭神は、須佐之男命、大国主命、少名比古那命。
現在の八坂神社の場所は、北之丸だった場所で、バイクを止めたリバーウォークは二之丸でした。
東楼門の場所は、昔は桝形虎口だったようですが、その痕跡はあまり残ってません。
第2次長州征討で焼失しています。 また、西南戦争以降は軍の駐屯地として使用されます。
なので現存するのは石垣や堀になります。
水堀や石垣は、意外とそのまま残ってる感じがします。
八坂神社・正門
昔の絵図を見ると、昔も門があったようです。
絵図で見た感じでは大きくは無さそうなので、薬医門か高麗門のような感じだったのかも知れません。 この門を取って左側に庚申堂があります。
忠魂碑
小倉第12師団に徴兵されて戦死された兵士の慰霊碑のようです。
周辺にはほかにも慰霊碑がありました。
古い絵地図と見比べると、この辺りは昔、武家屋敷だったようです。
小倉城天守が見えてきました。
現在の天守は 1959年に再建された模擬天守で、内部は資料館になっています。
立派な破風がある、カッコいい天守ですが、実在した天守は破風が無く、小天守と連結した連結式層塔型天守だったようです。 見た目はもっと地味でのっぺりした感じの天守だったようです。
見栄えを優先して手を加えたのだと思いますが、当時は史実よりも観光を優先する風潮が強かったのかと思います。
大手先門跡
続100名城のスタンプが置かれている、「しろテラス」に向かいます。
今は、何の痕跡もありませんが、ここに大手先門がありました。
絵図からは、はっきりしませんが、それほど大きな門では無かったようです。
当時は、こんなに幅が広く無かったのかも知れません。
しろテラス
ここで続100名城のスタンプを押しました。
隣は大型バス専用の駐車場なのですが、その片隅にでもバイク用の駐輪場を作って欲しいですね...。
大手門の手前です。 突き当たった右側に大手門があったようです。
枡形虎口のようになってますが、不思議な事に外側には門が無かったようです。
関ヶ原の戦い後の城なので、そこまで強固な防御能力は必要としなかった?
大手門跡
どんな門だったのか不明ですが、大手門なので立派な物だったと思います。
櫻門跡
多分、奥の階段を塞ぐように門があったのだと思います。
その先にあったのが本丸御殿だと思います。
天守はそれよりも1段下の曲輪に建てられていたようです。 昔は櫻門を通ると天守には行けなかったようなので、本丸周辺の構造は廃城後に少し変更されているようですね。
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘像。
巌流島の決闘は謎が多い決闘のようで、小倉藩に仕えていたと言う佐々木小次郎も、どんな人物だったのか不明な点が多いらしい。 武蔵と戦った時は、そうとうな高齢者だったとの説もあります。
また、巌流島自体が小倉藩の所領では無かったので、個人的な私闘だった可能性もあるようです。
武蔵は関ヶ原の戦い、大阪夏の陣、島原の乱などの戦にも出陣していたようですが、目立った功績は無さそうです。 集団による対決になると、案外、目立たない存在だったのかも知れません。
天守内部の資料館は、体験型の展示コーナーなどもあり、親子連れには良さそうな場所です。
小倉城主だった細川氏や小笠原氏に関する資料などが展示されています。
天守最上階の展望所から外を見ると小倉城庭園が見えました。
小倉城庭園は、もともと小倉城主の下屋敷だった場所で、1998年に大名屋敷を再現した日本庭園としてオープンしました。 今回は時間が無かった事と、バイクの荷物が心配だったので立ち寄りませんでした。 次に立ち寄った時には入りたいけど、バイクを停める場所がなぁ...。
天守を出て、松の丸があった場所の方に移動します。
その途中にあったのが、旧第12師団司令部の正門跡です。
日清戦争後、第12師団が創設され、その司令部庁舎が本丸に設置されました。
煉瓦造りの門の一部が現在で残っています。
松の丸の入り口付近にあるのが第12旅団本部正門跡。
第12師団が設立される前に、松の丸に第12旅団本部の庁舎が設置されました。
当初はこちらも赤レンガだったようですが、その後、現在のように白いモルタルで覆われたようです。
現在の松の丸跡地。 平和です。
松の丸奥に白洲燈台がありました。
小倉藩沖の「白洲」と呼ばれていた場所は海の難所で、今でも藍島近くの小さな島に白洲灯台が設置されています。 岩松助左衛門は灯台の設置に尽力しますが、灯台が完成する前に亡くなります。 その功績を偲ぶ為、当時の設計を模した灯台が 1963年に建てられました。
最後、水堀沿いに歩いて東楼門の方に歩いて帰ります。
多分、神社の建物だと思うのですが、櫓のようで、妙に迫力があります。
やっぱり街中の城跡は、バイク用の駐輪場を整備して欲しいですね..。
落ち着いて散策出来ないです...。
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