富山県 増山城跡2022年08月11日

増山城に行く前に鳥越城に行く予定でしたが、大雨によって林道入り口が土砂崩れで通行不能になっており、登城を諦める事になりました...。
事前に入れない事は知っていたのですが、万が一と言う事もあるのでダメ元で行ってみましたが、そんな生易しい状態では無かったです...。 予定を変更してそのまま増山城に向かいます。
鳥越城跡入り口

増山城の正確な築城年代は不明です。 前身と思われる和田城の資料から 1362年以前には存在していたと考えられていますが、増山城の前身を和田城とする意見と亀山城とする意見に分かれているようです。 越中守護畠山氏の守護代として神保氏が長く支配し、富山城の支城として増山城を整備します。 1560年に長尾景虎(謙信)が越中に侵攻した時、神保長職は富山城から増山城に退避しますが、1562年に上杉輝虎(謙信)によって増山城周辺は放火され長職は敗走します。
増山城は謙信によって、何度も攻められ、謙信没後の 1581年には織田信長によって焼き討ちにされています。 その後、豊臣秀吉の支配下になると前田利家の重臣、中川光重が城主となります。 ただし光重は不在な事が多く、実質的には妻の蕭が切り盛りしていたようです。
蕭が 1603年に亡くなると、増山城は 1614年に廃城になります。

砺波市埋蔵文化財センター
続100名城のスタンプはここに置かれています。
休館日でしたが、スタンプは入り口に置かれているので押す事ができました。
増山城の地図も置いてあったので散策する前に立ち寄ると良いと思います。
砺波市埋蔵文化財センター

増山城駐車場
スタンプが置かれていた砺波市埋蔵文化財センターからは結構、離れています。
公共交通機関で散策する場合はちょっと大変かも知れません。
駐車場は結構、広いので停める場所には困らないでしょう。
増山城駐車場

和田川ダムを渡ると登山口の冠木門が見えてきます。
地図を見ると、増山城、亀山城、孫次山砦の3つの城が連なる大きな山城のようです。
気温も高く、時間的都合と言うよりも体力的な都合により増山城のみを散策する事にします。
増山城・冠木門

遊歩道を登って増山城の曲輪を目指します。
増山城は山城ですが、山裾を流れる和田川も天然の水堀として活用していたのでしょう。
川の対岸には城下町が広がっていたようです。
現在は和田川ダムによって増山湖が出来た為、平地部分の地形はだいぶ変わっています。
増山城・遊歩道

大堀切
遊歩道を進むと見えてきたのが尾根を分断している大堀切です。
増山城の北側は、馬之背ゴから御所屋根敷までの幅 305m の間を断続的に大きな堀切で尾根を分断しています。 遊歩道の左右にも大きな大堀切があります。
草木に覆われて見えにくいですが、場所によっては幅 15.5m、深さ 10m もある大きな堀切です。
増山城・大堀切

F郭
冠木門があった北側を監視する目的と考えられている郭です。
郭の広さは 31 × 30m あり、南北2段構造で、排水溝もと思われる溝も見つかっています。
出土した皿などから16世紀中頃から後半には郭として機能していたと考えられています。
増山城・F郭

馬之背ゴ
増山城の一番西側にあるL字型をした郭です。
変わった名前の由来は、馬の背に似た形状から付けられたと考えられています。
少なくとも16世紀中頃と、16世紀末~17世紀初期の2回工事が行われているようです。
1回目の工事で土塁が築かれ、2回目の工事で北側への拡張が行われたようです。
周辺の土塁も良く残っています。
増山城・馬之背ゴ

この辺りに分岐路があり、一方は二之丸方面、もう一方は城下町土塁跡方面になります。
城下町土塁跡方面はここから 540m もあり、もう一度登って来るのも困難なので諦めました。
但し、この判断により重要な一之丸を見逃してしまった...。
案内には、「城下町土塁跡」では無く、「一之丸」と書いて欲しかったですね..。
増山城

又兵衛清水
天保年間の 1840年に作成された絵図には記載されている清水です。
神保氏の家臣、山名又兵衛が発見した事により、又兵衛清水と呼ばれています。
増山城の中心部付近にある、重要な水源だったと思われます。
増山城・又兵衛清水

二之丸
主要な曲輪群の中心的な場所にあり、増山城最大規模の櫓台跡が見つかっており、2ヶ所の隅櫓を備えます。 名称は「二之丸」ですが、総合的に考えてここが主郭(本丸)と考えられています。
城の改修を繰り返している内に、役割が変わったのかも知れません。
郭の広さは 90 × 50m あります。 空堀から見つかった焼けた堆積物は、織田氏による焼き討ちの跡と推測されています。
増山城・二之丸

神水鉢
本丸にある水鉢で、水が枯れる事は無いと伝わります。
自然石に空いた穴ですが、綺麗な円形なので人工的な物だと思います。
神保氏は、この水に映る月影で時刻を知ったとされます。
増山城・神水鉢

安室屋敷
二之丸北側の安室屋敷が良く見えます。 二之丸とはかなり深い空堀で分断されており、二之丸北側の空堀からハシゴを登って入る事になります。
安室とは、家督を譲って隠居した人の住居の事だそうです。 なので、誰かの屋敷があったのかも知れません。 広さは 35 × 72m。 土塁のような遺構も残ってました。
増山城・安室屋敷と二之丸の空堀

増山城・安室屋敷

増山城・安室屋敷

鐘楼堂
奥に見える階段を登った所にあるのが鐘楼堂です。
緊急時は、ここにあった鐘を鳴らして城内に知らせていたようです。
増山城・鐘楼堂

増山城・鐘楼堂

無常
二之丸の南側に南北に延びる尾根を作り替えた細長い郭で、長さは 80m もあります。
城下町からの敵を遮るような場所に位置しており、この先にある鐘撞堂との間を通過する敵を挟み撃ちにする構造のようです。
さらに、無常の西側には6本の竪堀が並び、敵の横移動を制限しています。
「無常」と言う変わった呼び名は、「実城」が変わった物、もしくは、寺院の葬送施設「無常堂」を由来とする説などがあります。
増山城・無常

鐘撞堂
無常の先端は大きな堀切で尾根が分断されており、その先には鐘撞堂があります。
かなりの落差があり、無常から直接、鐘撞堂に行く事は出来ません。
無常を引き返すと空堀に降りる場所があり、そこから鐘撞堂に行く事ができます。
増山城・無常から見た鐘撞堂

鐘撞堂の下に到着。 但し、登る場所が無く、下から見学する事にします。
鐘撞堂には櫓状の高層建物が存在していた可能性があります。
ここは、無常からも、鐘撞堂からも攻撃される場所なので非常に危険な場所です。
鐘撞堂の先には南櫓台がありますが、雑草が酷かったので引き返します。
増山城・鐘撞堂

J郭
無常の東側、二之丸の南側にある郭です。
あまり整備されていないので中に入れませんが、広さは 43 × 18m あり、南側は段状になっているようです。 ここは、南側から来る敵から防御する施設だと思いますが、他の郭のように高い場所では無いので、それほど防御力が高そうには思えません。
増山城・J郭

二之丸南側の横堀を通って三之丸方面へ移動します。 左斜面の上が二之丸です。
空堀の上幅は 10m、底幅は 5m、郭との落差は 6m もあります。
信長による焼き討ちの証拠と思われる焼土層はここから見つかったようです。
増山城・横堀

これも、人工的に掘られた堀切の一部だと思います。
K郭の方に行ってみたのですが、今一つ何処だか分らんかったです...。
増山城・堀切

馬荒池
二之丸の東側にある増山城唯一の池です。
空堀に湧き水を溜めて作った池のようです。 寛政年間には水田になっていたようです。
増山城・馬洗池

三之丸
位置的には安室屋敷の東側にある郭で、大きな空堀で分断されています。
1840年の古い絵図には角櫓の記載があったようですが、増山城は 1614年に廃城になっているので、城の遺構では無いのかも知れません。
ここは、「オオヤシキ」との別名もあるので居住空間だったとは思いますが、廃城後の呼び名の可能性もあります。 この先を進むと亀山城になりますが、今回はここまでとします。
増山城・三之丸

兎に角、めちゃくちゃ暑かったです...。
駐車場まで戻ってくると、頭から水をかぶって体を冷やしました。
夏の山城はキツい...。