福井県 越前大野城2022年08月10日

越前大野城は織田信長の家臣、金森長近が 1576年に亀山に4年をかけて築城した平山城です。
1586年に金森氏が飛騨に移封されると長谷川秀一が城主になりますが、入城した年は不明なようです。
青木一矩を経て織田秀雄が城主となりますが関ヶ原の戦いで敗戦した事により改易されます。
江戸時代に入ると城主は土屋氏、松平氏と移ります。 1624年、松平直政の代に大野藩として独立、1682年に土井氏が城主になると明治維新まで土井氏の統治が続きます。

亀山西駐車場
大野城の周辺には数カ所の観光駐車場があり、バイクを停める場所には問題ありませんでした。
バイクは天守に一番近い駐車場に停めました。
駐車場で地元の人と雑談した感じだと、数日前に大雨は、この辺りにもかなりの影響があったようです。 明日以降の行程に影響が無ければ良いのですが...。
越前大野城・亀山西駐車場

駐車場から天守に行くにはこの長い階段を登る必要があります。
大野城は大野市民族資料館の方から百閒坂で登るルートがありますが、江戸時代はそこからしか登れなかったようです。 なので、昔はこんな所に登城路は無く、この階段は公園化してから作られた道のはずです。
越前大野城・本丸へ

長い階段を登りきると開けた場所に出ました。
多分、ここも城だった頃は曲輪だったのだと思います。
奥に休憩所と土井利忠像が見えます。
越前大野城・郭跡

土井利忠像
利忠は、土井家7代目の藩主です。 1818年、利器の死去により、僅か8歳で家督を継ぎます。
当時、大野藩は財政難でしたが利忠は多くの藩政改革を行い、財政改革を成し遂げます。
利忠は病院の開設、藩校の開校、西洋砲術の採用など、学問の発展にも積極的でした。
1862年に隠居して家督を利恒に譲ります。 利恒は、大野藩最後の藩主となります。
越前大野城・土井利忠像

休憩所に書かれてる「偉業」が熱い..。
越前大野城・土井利忠像

先ほどの曲輪跡と思われる場所から遊歩道を少し進むと、左側に遊具がある曲輪らしき場所が現れます。 尾根沿いに曲輪を並べてる感じのようです。
大野城は縦長の城郭ですが、本丸を囲むように郭を配置する梯郭式に分類されます。
越前大野城・遊歩道

越前大野城・郭跡

武具蔵付近の門。
大野城は廃城令の後に競売にかけられ本丸は解体されています。
その事からも、復元された門だとは思いますが、この辺りは虎口っぽい感じになっているので当時もこんな感じの門があったのかも知れません。
越前大野城・門

武具蔵跡
先ほどの門の左側石垣上には武具蔵がありました。
越前大野城には弓や鉄砲以外に大筒も保管されていたようです。
石垣は野面積みでしょうか? 年代的に少し古い感じがします。 なお、大野城の石垣の石材は近くの戌山城から運んだとの伝承があるようです。
越前大野城・武具蔵の石垣

越前大野城・武具蔵跡

お福池
金森長近の正室、お福の名が由来となっている池です。
お福は、斎藤道三の娘で織田信長の正室、濃姫の姉妹との説があります。
もし本当だとしたら、金森長近は織田信長に仕えていたとは言え、意外と身内に近い関係の人物だったのかも知れません。
越前大野城・お福池

天狗の間
お福池の奥に天狗の間が見えます。 その奥に少し見えるのが大天守です。
大野城は2層3階の望楼型大天守と2層2階の小天守、天狗の間が連なる複合連結式天守だったようです。 解体された天守は 1968年、旧士族だった萩原貞氏の寄付により、当時の姿を推定して再建されました。
越前大野城・天狗の間

大天守
天狗の間を回り込むと石垣の上に大天守が見えてきます。
鉄筋コンクリート製の復元された天守は資料館として使用されています。
大天守の前でイベントの準備作業が行われてたので、正面から写真を撮るのを忘れてしまった..。
越前大野城・大天守

ここから大天守に入ります。
1749年頃の古い絵地図を見ると、この辺りに小天守があったのかも知れません。
大野城の本丸は 1775年に火災で焼失しており、1795年に再建されました。 この時代に天守を再建するとは思えないので、幕末に天守は無かったかも知れません。
石垣の保存状態は良さそうな感じです。
越前大野城・大天守

本丸の隅の方にあった「権現宮跡」。
何なのかは不明ですが、石積みの大きさや「権現」から察するに、守り神を祀るような祠があったのかも知れませんね。
越前大野城・権現宮跡

では、大天守内の資料館で続100名城のスタンプを押しましょう。
天守最上階は展望台になっており、そこから町の様子が良く見えます。
越前大野城・大天守

越前大野城・大天守からの眺め

資料館の見学を終え、本丸北側の階段で外に出ます。
野面積みの石垣が素晴らしいですね。
越前大野城・本丸周辺

越前大野城・本丸周辺

塩硝蔵跡
「焔硝」では無く「塩硝」の字が使われている所が変わってます。
ここには火薬か火薬の材料が保管されていた蔵がありました。
大変危険な物なので、少し離れた場所が多いのですが、こんなに本丸に近くて大丈夫ですかね..。
越前大野城・塩硝蔵跡

金森長近像
この方が越前大野城を築城した金森長近です。
長近は築城と共に城下町の整備も行いました。 飛騨に移封した後は飛騨高山の基礎を作った人物でもあります。
主君、織田信長が本能寺の変で討たれると豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍・徳川家康側に付きます。 戦国の世を、非常に上手く乗り切った人物と言えそうです。
越前大野城・金森長近像

麻木櫓跡
本丸北東側の一段下の曲輪には2階建の麻木櫓がありました。 現在は休憩所が建てられています。 越前大野城には4つの櫓がありましたが、2階建ての櫓はここだけだったようです。
越前大野城・麻木櫓跡

当時、麻木櫓の横には門があり、そこから下段の曲輪に出入りしていました。
多分、ここはその名残りだと思いますが、こんな直線的な階段だったのかは不明です。
越前大野城

金龍院
詳細は良く分かりませんが、長近は 1597年に京都大徳寺境内に菩提寺として金龍院を建立しています。 金龍院は明治時代に廃寺になっており、お墓は大徳寺塔頭龍源院に移されています。
この建物は、大徳寺から移築したのでしょうか? (そこまで古そうな感じはしませんが...。)
越前大野城・金龍院

西国三十三所石仏
亀山観音石仏とも呼ばれ、1923年に地元の人によって立てられました。
西国三十三所観音巡礼を実際に行うのは難しく、その代わりとして全国にこのような石仏が建てられました。 ここも、そういった石仏の一つだと思います。
西国三十三所観音巡礼の基礎は、徳道上人が築いたと伝わります。
徳道上人は、病で仮死状態だった時に閻魔大王と出会います。 閻魔大王は、救済のために観音菩薩の慈悲に触れる巡礼を広める事を伝え、起請文と33の宝印を徳道上人に授けます。
現世に戻った徳道上人は、33の観音霊場を築きました。
越前大野城・西国三十三所石仏

搦手門
駐車場に戻る途中、亀山南第一駐車場の近くに復元された搦手門を発見。
どうせ急な階段を登るのであれば、ここから百閒坂を登れば良かったですね...。
越前大野城・搦手門

越前大野城の周辺には武家屋敷が残されているので、それらも見学して行く事にします。