和歌山城2014年08月14日

和歌山城は 1585 年に羽柴秀長が築城したのが始まりです。
その後、城主は桑山重晴、浅野幸長と入れ替わり、1619 年、徳川頼宣が入城すると徳川御三家の一つ紀州徳川家の居城となります。
明治に入ると廃城令によって多くの建物が移築解体され、残りの建物も太平洋戦争で焼失しました。

では、和歌山城観光案内所近くの駐輪場にバイクを停めて散策を開始します。 この辺りは砂の丸と呼ばれていたようです。

鶴の渓
この階段を下りた先の通りが鶴の渓で、砂の丸と二の丸をつなぐ通路になっていました。
浅野氏の頃、この辺りで鶴を飼っていた事からこの名が付いたそうです。 
和歌山城・鶴の渓

鶴の渓の石垣は野面積で積まれてます。
この辺りの石垣は桑山氏の頃に作られたそうです。
和歌山城・鶴の渓

西の丸庭園
この辺りは西の丸があった場所で、徳川頼宜が西の丸御殿に庭園を造りました。 庭園の池は内堀の一部を利用して造られています。
明治維新後、庭園は荒廃してましたが、大規模な発掘調査が行われ復元・整備されました。
和歌山城・西の丸庭園

池の上に突き出すように建てられている鳶魚閣(えんぎょかく)です。
空襲で焼失していたので、こちらの建物も復元された物です。
和歌山城・鳶魚閣

御橋廊下
外観の写真では分かりにくいですが、勾配が11%もあるかなり傾斜した橋です。 この橋で二の丸の西の丸を繋いでいます。
この橋も、発掘調査を経て 2006 年に復元されました。 内部は床が斜めなので少し違和感を感じる空間です。
和歌山城・御橋廊下

和歌山城・御橋廊下

二ノ丸
現在はご覧の通り、何もない広場ですが、当時はここに御殿がありました。
御殿は役割に応じて、表、中、奥、大奥に別れてました。 大奥は側室や奥女中の生活の場で、藩主以外は入れません。 この辺りは江戸城に非常に良く似ています。
和歌山城・二ノ丸

裏坂から天守を目指します。
坂を登っていくと石垣の積み方が変わっています。 下の方は打ち込みハギでしたが、上の方は野面積なので年代的には古そうです。
和歌山城・裏坂

和歌山城・裏坂

二之御門
料金所で入場料の支払いと100名城のスタンプを押して中に入ります。
和歌山城は連立天守と呼ばれており、周辺の建築物と繋がっています。
天守から時計回りに、多門、二之御門、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守と、ぐるりと一周します。
和歌山城・二の門

和歌山城・二の門

天守
空襲で焼失した天守は昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。
左側に伸びている多門が先ほどの二之御門へと繋がります。
和歌山城・天守

左側が小天守で右が天守になります。
和歌山城・天守

天守から見た風景です。
上から見ると、多門、二之御門、多門、乾櫓へと、すべて繋がっているのがよくわかります。
和歌山城・天守からの眺め

追廻門
砂の丸の入り口になる門で、馬術を練習する追廻があった事からこの呼び名が付いたそうです。 城では珍しい朱色に塗られた門で、場所的に裏鬼門にあたる事から厄除の為に塗られたそうです。
空襲による焼失を逃れた和歌山城では貴重な現存建築物です。
和歌山城・追廻門

和歌山城・追廻門

ぐるっと一通り回ったつもりでしたが、大手門や岡口門を観てくるのを忘れました。 特に、岡口門は数少ない現存建築物なので次回訪問時は必ず観て行きたいと思います。
和歌山城・石垣


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