青森県 三内丸山遺跡2019年08月20日

三内丸山遺跡は縄文時代前期~中期(紀元前 3900 ~ 2200年)頃の大規模集落跡で、今から 5900 ~ 4200年前の遺跡です。 遺跡の存在は江戸時代から知られており、当時から土偶などが出土したいたようです。 1992年から発掘調査を開始し、大規模な集落跡が見つかると史跡として保護する事が決定します。

今まで色々な史跡を見て来ましたが、自分が訪問した中では最古の部類に入る史跡です。 吉野ケ里遺跡の時もそうですが、予想以上に立派な施設だったのでちょっと驚きました。
第1駐車にはバイク専用のスペースがあるのでバイクはそこに駐車しました。
三内丸山遺跡

復元集落
竪穴住居が中心で、550棟以上の建物跡が見つかっています。
茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の方式で縄文時代中期の建物が復元されています。
回りを見渡して吉野ケ里遺跡と決定的に違うのは、堀のような防御施設が見当たらない事でしょうか? 稲作により富の格差が発生すると略奪が発生し、防御用の堀などが作られるようになりました。 北方の縄文時代は穏やかな時代だったと願いたいですね...。
三内丸山遺跡・集落

三内丸山遺跡・集落

三内丸山遺跡・集落

大型竪穴建物跡
集落の中心部付近からは長さ 10m を超える建物跡がいくつか見つかっています。
ここでは発掘された時の状態を展示しており、柱の位置を外側に移動している痕跡がある事から建替えられた可能性があるようです。
三内丸山遺跡・大型竪穴建物跡

こちらは復元された縄文時代中期の大型竪穴建物。
長さ 32m、幅 9.8m もある巨大な物で、集会場や共同作業場として利用されていたと考えられています。 縄文時代にこれほど大きな建物があったのは予想外です。 生活も思っている以上に豊だったのかも知れません。
三内丸山遺跡・大型竪穴建物

三内丸山遺跡・大型竪穴建物

南盛土
竪穴建物を掘った時の土やゴミ、土器の破片などが長期間にわたって同じ場所に棄てられた為に盛り上がった場所です。 
地下に続くこの扉の先では発掘当時の状態で地中の遺構が展示されています。 ここを調べると縄文人の生活が見えてくるようで、フグなども食べていたと考えられています。
三内丸山遺跡・南盛土

三内丸山遺跡・南盛土

掘立柱建物
地面に柱の穴を掘って建てた建物で、高床式と考えられています。
遺跡の中心部分でまとまって発見されています。
お酒も造られていたようで、共同の貯蔵庫のような役割だったのかも知れません。 交易も結構、活発だったようです。
三内丸山遺跡・掘立柱建物

大型掘立柱建物
テレビなどでも良く見る大きな掘立柱建物です。 復元された建物を実際に見ると、縄文時代の建造物とは思えない大きさです。 屋根は意見が分かれている事から復元していないようです。 発掘で見つかった柱穴は直径 2m、深さ 2m もあり、 4.2m 間隔で規則的に並んでいました。 その規模からこれだけの建物があったと推定されています。
見張り台ですかね...。 とにかく大きいです...。
三内丸山遺跡・大型掘立柱建物

建物内で展示されている巨大な柱跡。 発掘時の状態で展示されています。
三内丸山遺跡・大型掘立柱建物跡

子供の墓
建物内で発掘時の状態で展示されています。 子供の墓は 800基以上見つかっています。
子供は土器に入れて埋葬されていたようです。
子供の死亡率は現在とは比較にならないほど高かったはずです。 子を失う悲しみは数千年前も今と変わらなかった事でしょう...。
三内丸山遺跡・子供の墓

北盛土
こちらでも大量の土器が棄てられており、その様子が発掘時の状態で展示されています。
訪問当日は大学生が遺跡の調査を行ってました。
ちょっと珍しい光景かも知れません。
三内丸山遺跡・北盛土

屋内展示も充実してました。 当日は土偶の特別展も行われました。
三内丸山遺跡では、発掘された土器の復元作業なども館内で行われ、それらの一般収蔵庫も公開されています。  館内展示では、出土品や縄文時代の生活の様子なども解りやすく展示されています。
三内丸山遺跡・一般収蔵庫

三内丸山遺跡・館内展示

縄文ビッグウォール
壁には本物の土器片が 5120個も使用されています。
年代も下から上に行くほど新しくなり、約 5900 ~ 4200年前の土器になります。
三内丸山遺跡・縄文ビッグウォール

テレビで度々見かける三内丸山遺跡、やっと訪問する事ができました。 弥生時代の吉野ケ里遺跡との違いが興味深かかったです。
これだけの規模の集落が、縄文時代後期に終焉を迎えた理由は不明なようですが、周辺に移住して行ったのでしょうか? ちょっと気になりますね...。