鹿児島県 鹿児島城(鶴丸城)跡 ― 2018年04月30日
鹿児島城は鹿児島県鹿児島市にある日本100名城の一つです。 鹿児島では、鹿児島城では無く鶴丸城と呼ばれていました。
関ヶ原の戦いで敗れた西軍側に付いた島津氏が、徳川の脅威に対抗する為に 1601 年に築城しました。 実際には徳川に許された為、実戦に使われる事はありませんでしたが、幕末の薩英戦争では砲撃を受けています。 明治に入ってからも、西南戦争の舞台ともなり、政府軍によって撃ち込まれた銃撃跡が石垣に残ります。
現在の鹿児島城本丸跡地は博物館(黎明館)として使用されています。
黎明館の駐車場への入り口は少し迷いましたが、なんとかたどり着いて駐車場にバイクを停めます。
駐車場から黎明館の入り口に向かう途中にある緑地です。
この辺りには麒麟の間と呼ばれる部屋があったそうです。 ツツジの植栽は、その建物の基礎の位置を示しているそうです。
100名城のスタンプは、黎明館の受付にあります。 スタンプを押した後は館内を見学しました。 館内はほとんど撮影NGですが、屋外展示も多いのでそちらも見学します。
茶室もありましたが、こちらは予約制。
予約して利用料を支払えば、一般人でも利用する事ができます。
樋の間(てのま)二つ家
海老ヶ迫家住宅を移築したもので、築年代は 1830~1844年頃のようです。
樋の間とは、2つの家を繋いている板張りの間の事らしく、このような建て方は川内川流域から旧姶良郡一帯によく見られたそうです。
田の神像
農耕を営む人々の間で信仰されていた田の神の石像です。
田の神の信仰は全国的に存在しますが、このような石像を祀るのは九州南部にしか見られないそうです。 「模刻」となっているので、どこかの水田にでも鎮座しているのも真似て造った物なのかと思います。 でも、すり減り具合がリアルですね...。
石敢當(せっかんとう)
T字路の突き当りに魔除として石敢當を建てるそうです。 この風習は中国から伝わったものらしく、鹿児島や沖縄で多く見られるそうです。
御楼門
城の敷地が博物館など別の施設として使用されている為、当時を偲ばせる物は少ないです。
御楼門の桝形は、数少ない当時の遺構の一つですが、石垣が穴ぼこだらけで異様です。
この穴は西南戦争の時に、城山に陣取った西郷達に浴びせた政府軍の銃弾や砲弾の跡です。 このような跡は他の城郭では見た事が無く、兵器の近代化が進み威力が各段に上がっている事が判ります...。
門自体は 1873年に火災で焼失しています。
西南戦争は 1877年なので、籠城戦の頃には門は無かったようです。 だから枡形の内側の石垣にあれだけの弾痕が付いたという事か...。
濠と石垣
本丸周辺の濠と石垣です。
石垣の石材が綺麗に加工されている事から、築城年代が比較的新しい事が分かります。
銃弾の跡が見当たらない事から、御楼門に攻撃が集中していたように思えます。
薩摩義士碑
1753年、薩摩藩は幕府の命により岐阜県木曽川の治水工事を行っています。
梅雨による増水や幕府役人との軋轢など、大変な難工事だったらしく、病死者も続出し、完成するのに1年3ヶ月もかかりました。 工事費も想定の倍に膨れ上がったそうです。
総奉行だった平田靱負は責任を取って自害しています。
西郷隆盛洞窟
黎明館の周辺には西郷に関わる場所があるので少し散策してみます。
城山に籠った西郷達が隠れていたとされる洞窟です。
「洞窟」と聞いていたので、防空壕のようなもっと大規模な物を想像してたのですが、ただの「くぼみ」と言った感じです。 こんあ所に隠れてたと言う事は、そうとう追い詰められていたのだと思います。
西郷隆盛終焉の地
先程の洞窟から約600m の場所にある石碑です。
洞窟を出た西郷は、腰と大腿部に銃弾を受けて動けなくなります。
ここは、西郷が別府晋介の介錯で自刃した場所です。 自刃した西郷の首は奪われないようにどこか隠されたそうです。
当時の遺構はそれほど残って無いのですが、御楼門の弾痕は迫力があります。
ここが日本最後の内戦の地である事を後世に伝えています。
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