東京都 国分寺跡周辺(2) ― 2020年08月09日
武蔵国分寺散策の続きです。
旧本多家住宅長屋門
江戸時代末期に国分寺村の名主だった本田家屋敷の入り口として建てられた長屋門です。
先代当主の隠居所も兼ねてたので、住居的な部分があります。
村医者で分家だった本多雖軒(すいけん)が住宅兼診療所として使用されていた時もあったようです。 八王子や町田から通院する人もいたそうなので、名医だったのかと思います。
現在この長屋門は、武蔵国分寺跡資料館の入り口として使用されています。 ここから先は有料で、近くにある「史跡の駅おたカフェ」でチケットの購入が必要になります。
旧本多家住宅倉
本多家には数棟の倉があったようですが、その中の一つのようです。
1708年に建てられた倉を廃し、1900年に新造したのがこの倉のようで、昭和8年(1933年)に改修された事も判明しています。 外観は石積の建物に見えますが、木造2階建の建物で、石積に見える外壁を使用しているようです。
湧水源
資料館の一番奥にあるのが湧水源の観察ポイントです。
奥に見える崖の丸い穴のような部分の下から湧水が出ています。 関東ローム層の下には武蔵野礫層があり、ここから湧水が染み出てきます。
また、浸食により武蔵野礫層が見えている崖を「ハケ」と呼んでいたようです。
創建時の武蔵国分寺に存在していた七重塔の推定模型です。 国分寺には七重塔を1基置く決まりになっていたようです。 でも、現存する七重塔は見た事が無いです。
塔の高さは 60 m、835年に落雷で焼失、その後、9世紀中頃に再建されて10世紀前半までは存在していたようです。
資料館を出た後、真姿の池湧水群に移動します。
東京とは思えない清流で、関東ローム層でろ過された水がその下の礫層から湧き出ています。
もっと多くの水源があったようですが、都市化が進むにつれて減っていたようです。
清流のそばにある真姿の池。
848年、玉造小町が病気平癒祈願の為に国分寺を21日間参詣した時、どこからとも無く現れた童子が小町をこの池に案内し、池の水で身を清めるように伝えると消えてしまいました。
小町は池の水で身を清めると病は治り、元の美しい姿に戻りました。 「真姿の池」とは、そのような言い伝えか由来のようです。
池の中央にあった社はそれに関係する物でしょうか?
真姿の池湧水群の北側にあるのが国分寺の北東部分だと思われる遺構です。
この下に伽藍北側の境界にあった溝が埋まっています。
敷地には、遺構の状態が復元された穴もあります。
溝の外側からは8世紀後半~9世紀初頭の竪穴住居跡が見つかっており、寺の創建に係わった集落だと考えられています。 また、溝の周辺からは10世紀後半~11世紀初頭の竪穴住居跡も見つかっている事から、その頃には区画は消滅していて寺院が衰退していた事が推測できます。
七重塔跡
先ほどの北辺の区画溝遺構から約 400m ほど南に移動した所にあるのが七重塔跡です。
実際に歩いてみると、当時の武蔵国分寺の伽藍の広さが体感できます。
ここに資料館でみた模型の実物が存在していました。 一度落雷で焼失してますが、再建された塔が10世紀前半まで存在していたようです。
なお、ここより西に 55m ほどの場所に2つ目の塔が存在していた痕跡が見つかっているようです。
ただし、礎石が見つからなかったり、瓦の数が少ないなどの事から本当に建設されたのかは不明なようです。 高さ 60m の塔が並び立つ光景は見てみたいですね...。
国分寺・中門跡
七重塔跡から西に 150m 程度先に中門跡があります。 この辺りが国分寺の中心地付近のようで、市立歴史公園として遺構が保存されているようです。
ここが伽藍の中心部への入り口で、幅 9.5m の中門があった場所です。
発掘調査で礎石下部の壺地業が12か所見つかっており、中央に扉がある八脚門が存在していた事が判明しています。 この門の先に金堂がありました。
中門と金堂の間には幢竿(どうかん)と呼ばれる幡を吊り下げる柱が立っていました。
幢竿は手前の中門側に2本、奥の金堂側に4本あったようです。 支柱が3本ある場所が幢竿があった場所で、残り1本は右側の道路の下にあると推定されています。
道路を挟んで奥が金堂があった場所です。
国分寺・金堂跡
金堂跡からは塼(せん)と呼ばれる古代のレンガが発掘されており、上面はレンガ敷きになっていた可能性があります。 金堂跡はそれを意識した展示になっています。
幅 36.1m、奥行 16.6m ある立派な建物だったようです。
須弥壇の正確な場所は不明ですが、中央の一段高くなっている場所が須弥壇を復元した物です。
色の違っている場所は仏像が安置されていた場所を推定した物です。
国分寺・講堂跡
金堂の奥にあるのが講堂があった場所です。 講堂では経典の講義が行われた場所です。
8世紀中頃に創建された後、9世紀後半に再建され建物は東西に拡張されました。
再建時の基壇の外装は瓦積で、発掘調査でも見つかっているようです。 遺構保存時の盛土の影響で、基壇の高さは当時の三分の一程度のようです。
国分寺跡・鐘楼跡
金堂、講堂の東側には鐘楼がありました。 西側のほぼ同じ場所には経蔵があり、建物の規模も同じ事からどちらが鐘楼なのか意見が分かれていたようです。 現在では東側の建物を鐘楼跡と推定しているようです。
12か所の礎石跡が見つかっており、見つかった礎石からは火災の痕跡が見つかっているようです。
国分尼寺跡・中門付近、幢竿遺構
8世紀中頃に国分寺の創建が開始され、寺院の区画内に七重塔が最初に建立されました。
8世紀末になると国分寺伽藍の建物が建立され、その時に国分寺の西側に国分尼寺も建立されました。
国分尼寺の中門があった場所の大半は道路や建物の下ですが、中門跡の一部と幢竿遺構は市立歴史公園に残されています。 中門を通った先には直径 50 cm、支柱の深さ 1.6 m の巨大な幢竿がありました。 幢竿があった場所には木が埋められています。 また、奥には金堂前にあった4本の幢竿が再現されています。
国分尼寺跡・金堂跡
国分尼寺の中心にあったのが金堂です。 基壇の高さは 1 m ほどで、基壇掘り込み部分の発掘調査から、東西 26.7 m、南北 18.5 m の大きさで復元されています。
当時の基壇が失われた部分を利用して基壇断面の標本も展示されていました。 金堂の基壇は何層にも薄く固めて積み上げて行く方法で造られたようです。
国分尼寺跡・講堂跡
金堂の裏には講堂があったと推定されています。 但し、住宅開発などにより当時の遺構が失われており、正確な場所は判明していません。 国分寺跡の情報などから金堂の2割程度小さい規模の建物だったと推定されています。
国分尼寺跡・斜めに立つ幢竿遺構
講堂跡と推定される場所の奥に尼坊があり、その手前には8本の幢竿が並んでいました。
理由は不明ですが、北側に向かって右側の4本は斜め 54 度に傾けて設置されていたようです。
傾いたのでは無く意図的なのだと思いますが、倒れてこないのか不安を感じます。
国分尼寺跡・尼坊跡
尼僧が共同生活を行っていた尼坊は、幅 44.5 m、奥行 8.9 m の細長い建物でした。
礎石は見つかってないようですが、礎石が置かれた痕跡は見つかっているようで、現在は礎石の位置が展示されています。
遺構を分断するように道路が通っているので、ある程度、宅地開発が進んだ後に発掘調査が行われたのでしょうか?
西国分寺駅への帰りは、昔の鎌倉街道と伝わる道を通って帰る事にします。
この通りは古墳のような塚を切通りのような感じで掘り下げて造られています。 昔の古墳かと思ったのですが、14~15世紀頃に祥応寺の祈祷をする場所として造られたと推定されているようです。
塚の上から祥応寺の方を眺めた所です。
横切っているのが鎌倉街道。 奥の山の上に祥応寺があったと伝わります。
国分寺跡は、江戸時代には旧跡として知られていたようです。
当時から私のように散策に訪れる人がいたようで、ちょっと不思議な感じがします。
江戸時代から瓦の収集などは行われていたようですが、本格的な学術調査は明治時代に入ってから行われたようです。 宅地開発が進んでいる割には比較的遺跡保護の意識が高いのは、古くから調査が行われていたからでしょうか?
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