栃木県 唐沢山城跡(2) ― 2020年09月21日
唐沢山城散策の続きです。
南城から直接本丸に行く事も可能ですが、高石垣を見て二の丸から本丸に入る事にします。
二の丸への参道を進むと立派な高石垣が見えてきます。
旧大手道
二の丸への参道を先に進むと、左側から少し荒れた登り路と合流します。
実は、この山道の方が当時の大手道だったようです。 本来の大手道は南城の手前、二つ目堀の辺りで折り返していたのですが、まったく気が付きませんでした。
先ほどまで歩いていた、南城から二の丸への通路は、当時の大手道では無かったようです。
高石垣
高さ 8m ある立派な石垣です。
野面積のようですが、平たい感じに少し加工されている印象を受けます。
佐野氏は、小田原征伐以降、豊臣秀吉との結び付きが強くなり、この石垣はその技術が導入された事により構築されたと考えられています。
東日本の山城では「土」の城が多いので、このような石垣は少ないと思います。
二の丸
大手道から南側の虎口を通って二の丸に入ります。 古地図によっては「追手出丸」と記載されている場合もあるようです。
本丸の出入り口を守る重要な曲輪で、奥御殿直番の詰所があったと伝わる場所です。
現在、二の丸には南北2つの出入り口がありますが、北側の入り口は後から付けられた物のようです。
現在の二の丸から本丸への登城路は一直線ですが、城として機能していた頃は折れ曲がっていたようです。 神社として改修した時に手が入ったのかも知れません。
虎口付近には、威厳を示すような巨石が今も残されています。 左側の石垣は改修工事を行っているようです。 鳥居の先が本丸跡になります。
本丸
現在は唐沢山神社の本殿が鎮座していますが、昔は奥御殿があったようです。
本丸から見た高石垣です。
野面積で積まれた、最大高 8m の高石垣は上からみても迫力があります。
この高さの石垣を、武器・防具を装備したまま直接登るのは困難に思えます。
本殿前の門を出た先に1段下がった場所があり、そこは南局と呼ばれていたようで、奥女中の詰所があったようです。 地図によってはこちらを二の丸としてる場合もあるようです。
本丸の出入り口は、二の丸からの大手口と北東の搦手口の2か所だったようです。 なので、ここが「本丸」だった場合、南局から外への出入り口は神社創建時に作られた物なのかも知れません。
車井戸
南城の北側にある細い道を進むと深さ 25m の車井戸があります。
この場所は本丸のすぐ下にあるので重要な井戸だったのだと思います。
「がんがん井戸」とも呼ばれていたようです。
金の丸
車井戸を先に進むと金の丸に出ます。
宝蔵があった事から「金の丸」と呼ばれていたようです。
現在は金の丸ロッジの敷地として使用されているので、迷惑にならないように散策します。 よく見ると、土塁や虎口跡も残っているようです。
杉曲輪
金の丸の東側にあるのが杉曲輪です。
ここには「唐沢自然青年の家」があったようで、現在は取り壊されて更地になっています。
北側に虎口と土塁跡が残ってましたが、かなり手が入っている印象を受けます。
杉曲輪と北城の間にある堀跡です。 奥に見えるのが北城です。
ここの堀は竪堀とつながっているようで、尾根を分断する堀切と言った方が正確なのかも知れません。 昔は曳橋でもあったのでしょうか?
北城
平鳥屋丸とも呼ばれていたようです。
ベンチが円形に並んでいて、どこかキャップ場のような雰囲気を感じます。
一番東側にある曲輪のようで、これより先はかなり高低差があります。
この先に二重の堀切がありあすが、草木に覆われて良く見えませんでした。 ここから長門丸の方に引き返す事にします。
長門丸と引局の間にある虎口跡です。 道路が不自然に直角に折れ曲がっています。
奥に見える高い丘が本丸になります。 この辺りに本丸の搦手口があったようです。
当時は食い違い虎口だったようです。
長門丸
弓削長門が直番したと伝わる曲輪です。 お花畑とも呼ばれていたようです。
現在は弓道場のような使われ方をしているようでした。
ようやく再開できた、100名城、続100名城巡り。
ただし、いつ、移動自粛要請が再び出るか分からない状況です。
とにかく、コロナの感染に注意しながら散策を再開したいと思います...。
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