佐賀県 名護屋城(1) ― 2019年05月01日
名護屋城は豊臣秀吉による朝鮮出兵における拠点として 1592年に築城された城です。
築城は西国を中心に多くの大名が関わり、名護屋城の周辺には 140もの陣屋が築かれました。 名護屋城跡を含め、23の陣屋跡は国の特別史跡に指定されています。
周辺の城下町には10~20万もの人が集まり大きく発展しましたが、秀吉の死により朝鮮出兵は中止、1598年には廃城になり資材は唐津城の築城に使用されました。
名護屋城博物館
100名城のスタンプはこの博物館の受付に置かれています。
博物館は大きな駐車場があり、バイクを停める場所には困りませんでした。
木下延俊陣屋跡
博物館の資料で近くに木下延俊陣屋跡があるのを知ったのでそちらも見学する事にします。
木下延俊は秀吉の正室おねの甥にあたる人物です。 関ヶ原の戦いでは東軍に付き、豊後速見郡に移封され日出藩3万石の藩主となります。
名護屋城の近くと言うのは秀吉に近い親族と言う事でしょうか?

大手口
名護屋城の正面入り口となる場所で、ここには門があったようです。
この写真の右側が三ノ丸の石垣で、左側に見えるのが櫓台跡です。
写真には写ってませんが櫓台の左側には広場があり、発掘調査で掘立柱跡が見つかっている事から何等かの建物が存在していたのだと思います。
大手道の左側に連なる三ノ丸の石垣です。
名護屋城は想像以上の大きな城ですが、これを5カ月で完成させた事は驚きです。
これだけの城が僅か7年で廃城になりますが、城下町の人々はどうしたのでしょうか...。
東出丸
長方形に突き出した形をしている出丸で、侍詰所が置かれたと考えられている場所です。
向かって右側の石垣は櫓台の跡です。
大手道から東出丸への出入り口付近。 向かって左側の石垣が櫓台です。
礎石跡からここには門があったようです。
門を通過して東出丸に入ると向かって右側の方にUターンするようにして三ノ丸に入ります。
写真中央にある石垣は北東隅櫓台です。
三ノ丸
かなりの広さがある三ノ丸です。 昔の絵図には屋敷が描かれています。
井戸は三ノ丸以外にも見つかっていますが、人員に対して数が不足していたようです。
深さは分ってませんが、三ノ丸は盛土されているので相当深い井戸だったと推測されています。
三ノ丸南東隅櫓
大手門を見下ろす場所に位置する櫓です。
絵図では平櫓として描かれていますが、もっと大きな建物があっても不思議では無い場所です。 櫓建築中に石段は作り直されているようで、当初の石段は写真中央の位置よりもっと手前にあったようです。
三ノ丸櫓台
三ノ丸と馬場の間にあった櫓台です。
この付近は何度か改修工事がされているようで、櫓台側の石垣はもっと手前の方まで出ていたようです。 また、門があったようですが取り壊されて玉砂利敷に変更した痕跡が見つかっているようです。 名護屋城は短命な城でしたが多くの改修が加えられていたようです。
本丸大手
三ノ丸から本丸への出入り口となる場所です。
この階段の先を左に曲がった所に大きな櫓門があったようです。
本丸の大手口も何度か改修工事がおこなわれて現在の形になったようです。
本丸
もの凄く広い本丸です。 ここは御殿があったと伝わる場所で、300畳を超える広さの建物跡も見つかっています。
現在は発掘調査で判明した遺構の上に盛土をし、建物の位置関係が分るように展示する整備をおこなっています。 秀吉が築いた御殿は残っておらず、遺構が発見されたのも名護屋城だけなので貴重な物です。
本丸も築城後に改修が行われているようで、この石垣も完全に埋め立てられていました。
築城当時の本丸南側はこの辺りだったようで、不自然に折れ曲がった石垣の様子からここに櫓があった可能性もあるようです。
天守台
本丸側から見ると意外と石垣が低く感じる天守台です。
天守を取り壊す時に天守台も崩したそうなので、その影響かも知れません。 また、本丸側も遺構保存の為に盛土している可能性もあります。
ここには五層七階建(地上六階、地下1階)の大きな天守があったとされる場所です。
天守台周辺からは金箔瓦が出土している事から秀吉好みの派手は天守だったのかも知れません。 建物の高さは25~30m くらいあったと推定されます。
広大な名護屋城の見学は1時間では足りないかも知れません。
引き続き二ノ丸方面を見学します。
最近のコメント