岐阜県 大垣城2023年09月17日

大垣城の築城年や築城者は不明だが、1535年に土岐氏の一族、宮川安定が築いた牛屋城が全身との説があります。
ここは重要な場所だった為、織田氏と斎藤氏の間で奪い合いとなり城主は頻繁に変わります。
1559年に氏家直元(卜全)が入城すると、城の大規模な改修が行われ総構の城へと変貌します。 城主はその後も頻繁に入れ替わり、関ヶ原合戦の時には西軍の陣が置かれます。
関ヶ原合戦で西軍が敗れると大垣城は落城、1601年に徳川家康の譜代大名だった石川康通が城主になります。
1635年からは戸田氏が城主となり幕末まで戸田氏が城主を務めます。 大垣城は 1873年の廃城令で廃城になります。 天守は解体されずに残されましたが太平洋戦争の空襲で焼失します。

奥の細道むすびの地 第二駐車場
大垣城は町の中心部にあり、駐車場も限られているのでバイクを停める場所に苦労します。
事前に調べておいた「奥の細道むすびの地 第二駐車場」9時少し前に到着しましたが、空きは半分くらいでした。 戻って来た時には満車状態だったので、早めに行かないと止められないかも知れません。
実は、大垣城はかなり前に一度来ているのですが、その時、何処にバイクを停めたのかまったく記憶がありません...。
大垣城・奥の細道むすびの地 第二駐車場

大垣大神宮
御祭神は天照大御神です。
1881年に伊勢神宮から分霊して創建したようなので、明治期以降の新しい神社です。
大垣城は廃城後に大垣公園として整備されており、ちょうどその頃に神社を建てたのでしょう。
神社は太平洋戦争で焼失しており、その後再建されています。
大垣大神宮

大垣大神宮と天守の間に空き地のような場所がありました。
当初、郭跡かと思ったのですが、縄張り図と照らし合わせるとこの辺りは堀底か竹之丸のようです。 周辺の堀が完全に埋め立てられており、当時の縄張りを実感させる物はほとんど残って無いですね...。
大垣城

戸田氏鉄公騎馬像
戸田氏鉄は、1635年に摂津尼崎から大垣に移封となり、その後、代々、戸田氏が幕末まで大垣城主になります。 戸田氏の治世が長く、氏鉄が戸田氏初代大垣藩主なので像が建てられたのでしょう。 氏鉄は実戦を経験した戦国末期の武士で、島原の乱にも従軍しています。
奥に模擬天守が見えます。
大垣城・戸田氏鉄公騎馬像

西門
1985年に建てらえた模擬櫓門です。
当時の資料を参考した訳でも無さそうで、縄張り図を見た感じでは、多分、この場所に櫓門は無かったと思います。
しかし、一度来ているはずなのですが、まったく記憶に無いですね..。 これだけ記憶に残って無いのも珍しいのですが..。
大垣城・西門

大垣城・西門

大垣城

戌亥櫓
1967年に復元された戌亥櫓です。 2010年に、戦災前の姿に近づける改修工事が行われてます。
鉄筋コンクリート製で、どこまで史実に基づいているのかは分かりません。
出入り口の所が水之手御門跡です。
大垣城の本丸と二之丸は池に浮かぶ浮島のような感じで、周辺が水堀に囲まれてました。 昔は道路の辺りが水堀で、水之手御門には船が直接接岸できたようです。
大垣城・戌亥櫓

おあむの松
関ヶ原合戦の時、石田三成の家臣だった山田去歴は家族と共に大垣城に籠城していました。
関ヶ原で西軍が敗戦すると大垣城も包囲されます。
しかし、家康の手習いの師匠だった山田去歴は、矢文によって脱出の手配を知らされます。
山田去歴の娘「おあむ」は松の木に縄をかけて内堀に降り、たらいに乗って家族と共に城からの脱出に成功します。 その時の松が「おあむの松」と呼ばれるようになったようです。
当時は大きな松でしたが第二次世界大戦前に枯れてしまい、現在の松は植え継ぎされた物らしいです。 おあむの戦国時代の体験談は「おあん物語」として残されています。
大垣城・おあむの松

洪水跡
1896年の大雨の水害では、大垣城周辺が水没するほどの被害を受けました。
大垣町の80%が屋根まで水没したらしく、この石垣の線は当時の水位を示しています。
元々、7月の大雨で被害が出ていた所に、9月の台風で状況が悪化したようです。
さすがに、ここまで水位が上がったら、どうにもならないですね...。
大垣城・洪水跡

鉄門付近
痕跡が余り残って無いので、位置関係が分かりにくいのですが、多分、門があったのは写真を撮った位置よりも、もっと後ろの方だと思います。
ここが本丸への唯一の入り口で、二之丸からの鉄門を通って本丸に入ります。
本丸と二之丸の間は廊下橋が架けられていたようです。
大垣城・鉄門付近

東埋門跡
多分、大垣城の石垣の多くは再建時に積み直された物だと思います。
でも、わざわざ崩れた状態で石垣を復元する事は無いので、東埋門周辺の崩れた石垣跡は当時の物だと思います。 辛うじて、ここに何らかの入り口があったと思える痕跡が残りますが、どんな門だったのかを想像するのは難しいですね...。
大垣城・東埋門跡

大垣城・東埋門跡

本丸内側の石垣。
野面積みです。 これは当時の物でしょうか?
積み直してる可能性もありますが、当時の物っぽい雰囲気はあります。
大垣城・石垣

東門
立て札には「大小姓多門跡 旧柳口門移設」と書かれていたので、多分、ここは多門櫓があった場所で、公園として整備する時に柳口門を移築して本丸への出入り口としたのでしょう。
柳口門があった場所は、現在の大垣城公園より南西側にある、現在は駐車場になっている場所にありました。 結構、離れた場所から移築したみたいです。
これは、移築された当時の建物でしょうか? 空襲で焼けて再建された可能性もありますが...。
大垣城・東門

丑寅櫓
こちらも再建された櫓のようです。
現在の東門が大小姓多門だったとすると、この櫓は多門櫓で連結されていたのかも知れまないですね...。
大垣城・丑寅櫓

天守
大垣城の天守は、1620年に三階建から四階建に改修されました。
天守は、太平洋戦争の空襲で焼失したしており、現在の建物は 1959年に再建された物です。
戦災前の写真と比べると、当時の姿に近い外観で再建されているようです。
また、天守には、東附多門、西附多門が付設されていたようです。 大垣城の本丸はそれほど広くありませんが、石垣で二重構造になっていたので、ちょっと窮屈な感じがします。
続100名城のスタンプは天守内にあります。
大垣城・天守

大垣城・天守

最後に、大垣市郷土館を見学します。
訪問当日の企画展は「合戦と大垣展」でした。
大垣市郷土館

もう少し、公園用の駐車場を整備してもらえると助かりますね...。


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