長崎県 興福寺2023年05月04日

1620年頃、明との貿易の為に渡来した中国人が渡航安全を祈願してこの地に小庵を建てたのが興福寺の始まりで、日本最初の黄檗禅宗の唐寺です。 眼鏡橋を架けた黙子如定もここの住職でした。
また、この地に唐寺が多く建てられた背景には、渡来した中国人もキリシタンで無い事を示す必要性があったからのようです。
興福寺も原爆により甚大な被害を受けましたが焼失は逃れました。 多分、崇福寺と同様に、金毘羅山が爆風や熱風を遮ったのだと思います。

山門
最初の山門は 1654年に建立されましたが、1663年に火災で焼失します。
1690年に日本人の工匠によって再建されますが、その時の門は原爆によって大破します。
幸い、火災にはならなかったので、修復されて現在に至ります。
なお、変額の「初登宝地」は興福寺最初の住職、隠元禅師の書です。
だいぶ雨足が強くなってきたのでレンズに水滴が...。
興福寺・山門

鐘鼓楼
1663年の大火で焼失し、1691年に再建されます。
原爆投下時、山門ですら倒壊したので、この建物が無事だったとは思えません。 多分、何らかの修復は行われていると思います。
梵鐘は、戦争中の金属提供で既に無かったようです。 その梵鐘ですが、2021年に隠元禅師の出身地である中国福建省から寄贈されて復活しました。
興福寺・鐘鼓楼

興福寺・梵鐘

大雄宝殿(本堂)
1632年、黙子如定禅師が建立しました。 興福寺の本堂は何度か再建されています。
1689年に再建されており、恐らく、1663年の大火で焼失したのでしょう。
1865年に暴風で倒壊後、1883年にされて現在に至ります。
原爆の時は倒壊は逃れましたが、柱が傾いたそうです。
興福寺・大雄宝殿

大雄宝殿は中国人工匠による中国様式の建物です。
蛇腹状のアーチ状屋根や氷裂式組子の丸窓など、日本様式の寺院ではあまり見たことな無い技法が使われています。
興福寺・大雄宝殿

原爆による損傷で、格子戸や丸窓は吹き飛んでしまったそうです。
大雄宝殿の修復時、組子裏の硝子を再現する事が出来ず、現在は板張りになっています。
当時の高度な技法で作られた装飾は、そう簡単には復元できないようです。
興福寺・大雄宝殿

中島聖堂遺構大学門
1647年、東上町に孔子廟と学舎が建てられ立山書院と呼ばれてました。
1663年の大火で焼失した為、1711年に中島川沿岸に再建された事から中島聖堂と呼ばれるようになります。 しかし、明治に入ると衰退し、大成殿だけになった為、保存目的で現在の場所に移転されました。
興福寺・中島聖堂遺構大学門

大成殿
中島聖堂遺構大学門の先にある、孔子を祀る大成殿。
興福寺・大成殿

三江会所門
1878年、三江(江南、淅江、江西の三)の出身者が三江会を設立し、興福寺内に事務所を置きました。 三江会は 1880年に会所を建てますが、原爆で倒壊して門だけが現存します。
放し飼いの豚が門の中に入らないように、門の敷居が少し高くなっています。
人が通らない時はもう一段高いようで、「豚返しの敷居」とよばれているそうです。
興福寺・三江会所門

興福寺・三江会所門

興福寺・三江会所門

雨の境内も悪く無いです。
興福寺

媽祖堂
興福寺の建物は、1663年の大火で焼失しているので、媽祖堂もその後に再建された建物と言う事になります。 正確な再建年代は不明なようですが、1670年頃に再建されたと考えられているようです。 唐船には必ず航海・漁業の守護神「媽祖」が祀られており、在泊中はここに安置したようです。
興福寺・媽祖堂

興福寺・媽祖堂

旧唐人屋敷門
日本に来訪する外国人の行動は制限されており、唐人も同じでした。
1689年に十善寺郷御薬園跡に唐人屋敷が建てられ、来航した中国人はそこに居住します。
しかし、1784年の大火により屋敷が消失し、それ以降は自由に住居を建てる事が許されたようです。 この門は保存の為、旧唐人屋敷内にあった門を 1960年に移築した物です。
興福寺・旧唐人屋敷門

時間は 14:00 頃。
長崎は簡単に来れる場所では無いので、急いで次の目的地、長崎原爆資料館に移動します。
やはり、2日くらい滞在しないとゆっくり見物出来ないですね....。