静岡県 高天神城 ― 2019年03月22日
高天神城は静岡県掛川市にある続100名城の一つです。
築城年代は不明ですが、1513年以前には福島氏が在城していたらしいです。
福島氏が没落すると今川氏に従属していた小笠原氏が城主になります。 今川義元が桶狭間で討ち取られると程なく今川氏は滅亡、小笠原氏は徳川家康の家臣になります。
高天神城は武田信玄の侵攻には耐えましたが、1574年、武田勝頼の猛攻により小笠原氏は降伏します。
その勝頼も 1575年に長篠の戦で敗北、1580年には徳川軍が高天神城に侵攻、翌年には落城します。
武田氏滅亡の切っ掛けにもなった高天神城は落城後、廃城となり役目を終えます。
今回は高天神城北の駐車場にバイクを駐車しました。
到着したのは早朝8時、停まっているのは雑木の伐採作業に来ていた人の車で、城の散策に来ているのは自分だけでした。
搦手門付近
登城路の入り口付近に鳥居がありました。 現在の城跡は高天神城の敷地なのかも知れません。 この鳥居の少し先に昔は搦手門があったようです。
搦手門は、「天下第一の槍」とも言われた渡辺金太夫照が250騎を率いて守っていましたが、高天神城が落城すると武田方に付きます。 1582年、武田方として高遠城を守備していた渡辺金太夫は織田軍と戦い討ち死にします。
搦手門跡を通過すると、こんな感じの登り坂がしばらく続きます...。
三ケ月井戸
登城路の脇にあった三ケ月井戸で、武田側の領地だった頃に造られたようです。
岩から水が染み出ているようで、金魚が飼われてました。 人に慣れてない金魚のようで、近づくと深く潜ってしまいました。
井戸曲輪
搦手門からの登城路が繋がっている場所です。 「かな井戸」と呼ばれる大きな井戸があります。 本丸と西ノ丸を繋ぐ場所にある曲輪で、武田勝頼による侵攻時には激戦が行われたと伝わる場所です。
西ノ丸
現在、西ノ丸は高天神社の敷地となっています。
高天神社は高天神城が落城するまで城中守護の神社として鎮座していたそうです。
約290年前に御前曲輪から西ノ丸に移されたそうなので、思ったよりも古い神社のようです。
御祭神は高皇産霊命、天菩毘命、菅原道真公。 高皇産霊命は別天つ神五柱の一柱で、天地の始まりに2番目に生まれた神様です。 天菩毘命は、天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱です。 菅原道真公は説明不要かと...。
神社裏側は土塁のような感じになっていました。
ただ、築城当時の物では無く、神社を建立する為に後から削った可能性もあります。
西ノ丸と馬場平の間にある堀切です。
造ったのは武田方のようです。
馬場平
こんな山の上で「馬」?と思いましたが、「番」のあて字のようで見張番所があった場所のようです。 この先に甚五郎抜け道があります。 この抜け道は 1581年、徳川軍の攻撃によって高天神城が落城する時、横田甚五郎が武田勝頼に落城を知らせる為に使った抜け道と伝わります。
甚五郎抜け道
二ノ丸
一度、井戸曲輪まで戻り、西ノ丸の脇を通り二ノ丸に入ります。
西側の曲輪の多くは武田勝頼が高天神城を奪取した時に増築された物らしいです。
ただ、勝頼侵攻時に、二ノ丸の守備に就いていた本間八郎三郎氏清、丸尾修理亮義清の兄弟が討死にした事から既に二ノ丸は存在しており、武田によって増築された部分は西ノ丸~馬場平辺りと言う事でしょうか?。
二ノ丸と堂の尾曲輪の堀切
当時は落とすことが可能な橋が架かっていたようです。
堂の尾曲輪
堀切を登って細長い形をした堂の尾曲輪に入ります。 ここは雨が降っている場合の散策は難しいかも知れません。
井楼曲輪
堂の尾曲輪と井楼曲輪の間にも堀切があります。 昔はここに橋があったと思いますが、今は堀底に下りてから登る事になります。
苦労して来た場所ですが、ここが先端のようなので二ノ丸まで引き返す事にします。
堂の尾曲輪、井楼曲輪の脇には長い空堀と土塁が築かれています。
高天神城の西側だけは斜面が緩やかな為、比較的攻めやすい場所になります。 その弱点を補う為、武田氏の時代が補強した堀と土塁になります。
西側の散策が終わったので、本丸のある東側に移動します。
的場曲輪
井戸曲輪から本丸への通路がありますが、その途中に的場曲輪への通路があります。
的場曲輪は名称から弓矢を練習していた場所と考えられています。 発掘調査で砂利が敷き詰められている事が判明しています。 的場曲輪から本丸に入る事ができます。
本丸
的場曲輪から本丸に向かいます。 右側にあるのが本丸の土塁になり、この通路の先に本丸の出入り口になる虎口があります。
1571年に武田信玄が侵攻した時は本丸に渥美勝吉率いる 500 騎と遊撃隊 150 騎が本丸に詰めたそうです。 殺気立った大勢の人がここに集まっていた訳ですが今は静かな場所です。
御前曲輪
本丸と御前曲輪の境目がハッキリしないのですが、御前曲輪に鎮座しているのが元天神社です。 西ノ丸の高天神社は御前曲輪から移されたとの事なので、元々ここに鎮座していたのかも知れません。
御前曲輪には 1934年(昭和9年)に地元出身の元少将が建てた疑似天守がありました。
建物は失われており、現在は土台のみ残っています。 土台から察するに、天守と言うよりも櫓に近い大きさだったようです。
三ノ丸
御前曲輪を沿うように通路を下ると三ノ丸に到着します。
武田軍が侵攻した時、小笠原与左衛門清有が 250騎余りで守備した事から「与左衛門曲輪」とも呼ばれています。 三ノ丸周辺には土塁の跡も残っていました。
大河内幽閉の石窟
三ノ丸から本丸を挟んで反対側にあるのが大河内源三郎政局を幽閉した石窟です。
1574年に高天神城が武田勝頼に降伏した後、政局は勝頼に従わなかった為に幽閉されました。 幽閉は家康が高天神城を奪還した 1581年まで続く長いものでした。
政局はその後、長久手の戦いで討死しています。
大東北公民館
続100名城のスタンプは高天神城から少し離れた大東北公民館にあります。 目印にしていた橋が工事中で渡れず、道に迷ってしまい苦労しました...。
公園として整備されていますが、遺構の状態は良さそうです。 続100名城は知名度よりも保存状態の良い城が多い印象を受けますね...。
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