愛知県 小牧山城跡2020年03月21日

織田信長は美濃侵攻への拠点として 1563年に小牧山城を築城しました。
美濃稲葉城(後の岐阜城)を攻略した後は拠点をそちらに移し、1567年に廃城になります。
豊臣秀吉と徳川家康が直接対決した 1584年の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が本陣を敷いた場所で、その時に城の改築が行われています。
江戸時代には「聖地」のような扱いとなり、一般人の立ち入りは禁止されていました。

小牧山城で利用可能な駐車場を調べた所、市役所の駐車場が使用可能との事でした。
駐輪場のスペースも広く、訪問当日は休日だったのでがら空きの状態でした。
ここにバイクを停めて大手口から散策する事にします。
小牧市役所駐輪場

大手路
大手口を通過した跡の大手路は一直線で、山の中腹辺りからつづら折りになります。
防御を考えた構造には思えませんが、この道を見ると安土城の大手路を思い起しました。
ちょっと不自然な感じもしますが、昭和初期の測量図で再現された縄張り図を見ると山頂方面への登城路はこの道しか記載されていないので、昔からこんな感じだったようです。
小牧山城・大手路

徳川源明公墓碑
大手路の傍らに徳川宗睦の墓碑があります。 「源明」は法名の「天祥院殿鋻譽峻徳源明大居士」かた取った名だと思います。
尾張藩九代藩主である徳川宗睦は藩政改革を行い「尾張藩中興の祖」と呼ばれてますが、評価が分かれているようです。 元々、墓碑は建中寺にあったようですが、1953年の区画整理で寺が移転になった際、ここに移されたようです。
小牧山城・徳川源明公墓碑

大手口付近の堀と土塁です。
この土塁は小牧・長久手の戦いの時に作られたようで、2重構造になっています。 土塁と土塁の間には深さ 6m の堀があり、城の外から見ると土塁の高さは 8m もあります。
昔、ここに市役所を建てたようで、その時に当時の土塁は壊されてしまいました。
現在の土塁は再現された物のようですが、非常に大規模な土塁と堀だった事が見て取れます。
小牧山城・南側の土塁

遊具が置かれている公園の下にある広場で、ここは当時、曲輪だった場所です。
ここから南側の土塁を超えてくる敵を狙い撃ちしたのかも知れません。
小牧山城・桜の馬場下の曲輪

桜の馬場
先ほどの曲輪の上にあるのが桜の馬場です。
現在は公園として使用されており、遊具が設置されています。
「馬場」って事は、ここに馬を走らせていたのかも知れませんね...。
とりあえず、続100名城のスタンプが置かれている小牧山城史跡情報館に向かいます。
小牧山城・桜の馬場

小牧山城史跡情報館
続100名城のスタンプは通常、小牧山の山頂にある小牧市歴史館に置かれているのですが、新型コロナの影響で臨時休館しており、現在は小牧山城史跡情報館に置かれています。
ただ、こちらも臨時休館中ではありますがスタンプだけは押せるようになっていました。
展示物が見学できないのは少々残念ですが、これ以上感染を広げない為の処置としてしばらくは我慢しましょう....。
小牧山城史跡情報館

東側の曲輪
案内では「曲輪402」となっていた場所です。 非常に大きな曲輪です。
城の東側にある土塁の内側には、大勢の兵士を待機させる為の広大な帯曲輪が置かれました。
実は、史跡公園南口を当時の虎口と勘違いしていたのですが、こちらは公園整備の時に土塁を削って作った通り道のようです。 当時の虎口は御幸橋口側だったようですが、完全に見逃してしまいました...。 この辺りにあった土塁や虎口も小牧・長久手の戦いの時に作られた物のようです。
小牧山城・曲輪402

案内では、「曲輪402(向かって左側)」と「曲輪403a(向かって右側)」の間にある堀と土塁です。
東側の広大な帯曲輪は船の水密隔壁のように、堀と土塁で一定のサイズで分断されています。
「曲輪402」側には土塁があり、堀は、幅 3m 深さ 2m 以上もありました。
また、「曲輪402」は織田信長が小牧山城を築城した頃の館跡だった可能性があるようです。
小牧山城・帯曲輪を仕切る堀と土塁

「曲輪403」付近
説明では「曲輪403」は、「曲輪403a」、「曲輪403b」の2区画に分かれてますが、東西に分断する堀跡などは発見されていないようです。 また、南北に分断するような堀跡の一部が見つかっている事から、もっと細長い帯曲輪だったのかも知れません。
小牧山城・曲輪403a

梅がキレイです。 青空と良く合います。
小牧山城・梅

山北橋口付近の虎口はこの付近にあたのだと思いますが、当時の遺構はまったく把握できなかったです。 土塁に幅 1.5m の切れ込みを入れて作られた虎口だったようで、虎口の前には堀もあったようですが、用水路の工事によって当時の姿は失われているようです。
小牧山城・虎口付近

井戸跡
織田信長が小牧山城を築城した頃はこの辺りは武家屋敷だったようで、この井戸はその頃に作られたようです。 小牧・長久手の戦いの時に武家屋敷跡を壊して土塁や堀が築かれ、井戸も人為的に埋め立てられたようです。 井戸の深さは 3.2m 以上あったようです。
小牧山城・井戸跡

土塁断面展示
北駐車場口付近には土塁の断面を展示している場所があります。
断面を見ると地層のように地質が異なる土が積みあがっているのが見れます。 土塁は幅 10m、高さ 3m もありますが、堀の土だけで足りたのでしょうか?
小牧山城の土塁は小牧・長久手の戦いの時に短期間で作られた物で、堀を挟んで2重構造になっていました。 ただ、現存するのは内側の土塁のみです。
小牧山城・土塁断面展示

搦手口
小牧山城の北側にある搦手口です。
北から東側は豊臣側の正面になる場所で、大規模な帯曲輪や土塁が築かれています。
ここが一番端にある出撃口なのかも知れません。
小牧山城・搦手口

搦手口から、くねくねとした山道を登って山頂を目指します。
昭和初期の測量図で再現された縄張図を見ると、この辺りは竪堀があるだけの斜面で、この登城路は記載されていません。 東側にも登城路の記載は無く、築城当時は豊臣側に面している北~東側から登る事は出来なかったようです。
小牧山城・山頂への道

土橋付近の堀
小牧山城の山頂周辺にある現在の遊歩道は、昔の帯曲輪の位置とだいたい一致しているので、昔からあった道を整備した可能性が高いです。
そこから山頂までを最短ルートで行くと、織田信長が小牧山城を築城した頃に作られた虎口を構成する土橋と堀が残っています。 なお、小牧・長久手の戦いの時に土橋は破棄されていたようです。
小牧山城・土橋付近の堀

山頂付近には信長時代に築かれた石垣がありましたが、大部分は崩れてしまい、大きな石が周辺に散乱していました。 また、近くには発掘調査で出土した裏込石が積まれていました。
裏込石は、石垣の内側に詰められた小さな石です。 中継ぎのような城ですが、思ったよりも本格的な石垣だったようです。 また、当時としては、石垣造りの城は珍しかったと思います。
小牧山城・石垣跡

小牧山城・裏込石

小牧山市資料館
現在の山頂には天守のような外観の資料館があります。 残念ながら、新型コロナの影響で中に入る事は出来ませんでした。 普段は続100名城のスタンプもここに置かれているようです。
築城時にどんな建物があったのかは分かっていないようです。 瓦も出土していないので、天守のような建物は無かったのかも知れません。 足元を石垣で固めた御殿のような建物だったのかも知れません。
小牧山市資料館

大手路側に下りて帰る事にします。 一直線だった大手路も山頂付近は曲がりくてっています。
現在の大手路の下からは、信長時代の大手路が見つかっています。
道幅は 5m もあり、中央には排水溝、両側には三段の石積があったようです。 なかなか立派な大手路だったようで、本当に安土城の大手路に似ていたのかも知れません。
小牧山城・大手路

大手路を途中で寄り道して観音洞の方に向かいます。
その途中にあった空堀跡です。
位置的に、登る時に通った土橋の方につながっているのかと思います。
小牧山城・空堀跡

観音洞
乳の出ない妻に食べさせる為に狩人が七匹の子を連れた鹿を撃つと、小鹿は七つの石に、母鹿は観音像と化しました。 殺生を悔いた狩人は、この地に草庵を結び観音像を安置しました。
既に草庵は移転してますが、「観音洞」と言う呼び名だけがのこされました。
そのような伝説がありますが、ここも普通に曲輪だったのだと思います。
小牧山城・観音洞

公園化している割には復元・保存されている遺構が多く、思ったよりも見所の多い城跡でした。
ただ、資料館が入れなかったのはちょっと残念でした。


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