沖縄県 中城城(2) ― 2023年03月20日
前回の続きです。
一の郭
正殿があったとされる、中城城の中核です。
番所は廃城後に役場として使用されますが、戦災によって焼失しました。
今、中城城に残っているのは石垣だけです...。
1858年のペリー艦隊探検隊が描いた番所の間取り図を見ると、薩摩侵攻後の番所は奥の一段高くなっている辺りにあったようです。
一の郭に入ると両側にずらりと石材が並んでました。
当時の遺構のようには思えないので、多分、解体修理している石垣の石材保管場所でしょう。
多少、当時の区画が石垣として残ってますが、昭和初期まであった役場の情報が少し残っている程度で、どんな建物があったのか資料がほとんど残ってないようです。
発掘調査により、13世紀後半から近代までの建物跡が見つかっていますが、何度も建て替えが行われているので、判明していない事も多いようです。
海側の眺めが良いです。
海に伸びてるのは吉の浦火力発電所の桟橋のようです。
火力発電所と桟橋が、今一つ結びつきません..。 どういう役割なんだろう...。
綺麗な海に伸びる、違和感のある不思議な施設です。
正殿跡
この辺りに正殿があったようですが、表面的にはほとんど痕跡が残ってません。
その後、番所が建てられ、ペリーの簡単な間取り図が残ります。
昭和初期の頃に撮られた、平屋建ての役場の写真が残ってますが、これが番所の姿に一番近いのでしょうか...。 昭和初期まで使われていた割には情報が少ないです。
ここから先が二の郭。
二の郭
結構広いです。 ここには「シライ富の御イベ」という拝所がありました。
周辺の石垣が美しいです。 この石垣の曲線は本土では見れません。
石垣の上を歩く事が出来ますが、幅が思ったよりも狭いです。
当時は雨だったので、傘を差してるとすれ違うのが難しいほどです。
二の郭の石垣です。 綺麗な布積みです。
石垣の先端部分に小さなツノのような突起があります。
防御的な意味合は無いとおもいますが、デザインでしょうか?
二の郭から三の郭に直接行く事は出来ません。 一度、西の郭の方に出てから行きます。
三の郭から見た、二の郭の石垣。
これは登れないですね...。
西の郭
兵馬の訓練をしたと伝わる場所で、長さが 120m もある大きな郭です。
但し、訪問時は立ち入り禁止でした。
南側から中城城に入る時、工事をしていたので、その影響かも知れません。
三の郭
広さ的には二の郭よりも少し狭い感じがします。 周辺の石垣も少し痛んでる気がします。
三の郭は「新城」とも呼ばれているようで、石垣の積み方が進化しているようです。
でも、内部からはその違いが分からないです。
外から三の郭の石垣を眺めた所。
「亀甲乱れ積み」と呼ばれる積み方のようです。
確かに、良く見ると亀甲積みですが、あまり石材を加工している感じがしないので、ちょっと見た感じでは野面積みにも見えます。
ウフガー(大井戸、番所井戸)
三の郭を出て北の郭に入ると、下へと延びる階段があります。 その先にウフガーがあります。
階段は雨に濡れていると滑りやすく、私は途中で転倒してしまいました。 特に怪我は無かったのですが、注意が必要な場所です。
北の郭が増築された時に、城内に取り込まれた井戸だと考えられています。 ただ、井戸の石積み年代が 16世紀以降なので、少し年代的に合わないようです。
北の郭と裏門
護佐丸が先ほどの井戸を取り込む為に増築したと伝わる郭です。
裏門は、ペリー探検隊が「エジプト式」と評したアーチ門です。
この門を出ると城外です。
記念運動場
めちゃくちゃ広いです。
記念運動場をしばらく歩いて振り返った所です。 奥に見えるのは三の郭です。
伊寿留按司の墓
記念運動場の奥の方にあります。 伊寿留按司は護佐丸の兄にあたる人物です。
城主になる事を望まず、中城間切に移り豪農になりました。
琉球石灰岩の岩肌を掘りこんで作られており、沖縄では珍しい、鎌倉時代の「やぐら」に似たお墓です。
それにしても、何気に始めた日本100名城巡り。 残すところ北海道の1カ所のみです。
始めた頃は全部は無理だろうと思ってましたが、なんだかんだでここまで来ました...。
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