長篠の戦い 設楽原の決戦場2016年10月09日

1575 年の長篠城包囲戦から始まった長篠の戦いは、設楽原の決戦へと戦場を移します。 大量の鉄砲隊を動員した織田、徳川連合軍に武田勝頼が屈したこの戦いは、戦国時代の戦い方を変えてしまったとも言われてます。

長篠城の訪問後、設楽原歴史資料館に立ち寄ります。
ここの見所はなんと言って展示されている火縄銃の種類と数の多さです。
また、設楽原の戦いに関する資料も豊富です。
設楽原歴史資料館

信玄塚・大塚
設楽原歴史観の奥には信玄塚があります。 設楽原の決戦では織田・徳川連合軍と武田軍を合わせて1万6千人もの死者が出ました。
竹広の村人は死者を弔う為に2つの塚を造りました。 こちらは武田軍の死者を弔った大塚になります。
信玄塚・大塚

信玄塚・小塚
こちらは織田、徳川連合軍側を弔った小塚。 塚の大きさの差が犠牲者の数の差を表していると思います。 信玄はこの時すでに亡くなっており、この戦いとは直接関係ありませんが、「信玄塚」と名付けられるほど信玄の影響力は大きかったようです。
信玄塚・小塚

閻魔堂
信玄塚・大塚のそばに建てられていたお堂です。
空道和尚は設楽原の戦いで亡くなった人を供養するために閻魔大王像を造りました。 大塚の地蔵像の石仏、小塚の観音像の石仏も空道和尚の作と伝えられています。
設楽原・閻魔堂

閻魔堂を後ろから覗くと地蔵像が微笑んでました。 地獄に仏と言った感じでしょうか?
設楽原・閻魔堂の地蔵

甘利郷左衛門信康の碑
資料館から戦場跡へ向かう途中にありました。
甘利信康は武田信玄の代からの家臣でした。 長篠の戦いで奮戦しましたが力及ばずこの地で命を落としました。 「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」の看板があったので、立ったまま切腹したみだいですね...。
設楽原・甘利郷左衛門信康の碑

柳田前激戦地
甘利信康の碑から馬防柵の方へ進むと、「柳田前激戦地」の印がありました。 駐車場にあった当時の布陣図を見ると、この辺りは激戦のど真ん中に位置するみたいです。
馬防柵の手前には連吾川が流れており、敵の突撃スピードを落とすには有効だったと思います。 よく考えられている布陣だったと思います。
柳田前激戦地

馬防柵
設楽原の戦いで使用された馬防柵を再現したものです。
当時の資料では7尺6寸(約 2.5m)の丸太を地中 50cm ほど埋めて柵としたようです。 これを 2km 3段に渡て設置したので相当な量の丸太を運んできた事になります。
設楽原・馬防柵

設楽原・馬防柵

設楽原・馬防柵

設楽原・馬防柵

鉄砲構え
当時の資料を参考に復元された鉄砲構えです。
馬防柵の手前は空堀のように削られており、柵の後ろは身が隠せるように土塁が盛られてます。 ただの柵って訳でもなさそうで、これだと突破するのは大変だったと思います。
馬防柵の設置作業時間は正味24時間と言われてるので、柵が完成するまでに勝頼が攻めてたら時代が変わってた?
設楽原・鉄砲構え

設楽原・鉄砲構え

土屋右衛門尉昌次戦死之地
馬防柵の一角に、「土屋右衛門尉昌次戦死之地」と書かれた碑が建てられてました。 土屋昌次は長篠の戦いで鉄砲隊の一斉射撃を受けて討死しています。 現地にあった合戦屏風の看板をみると、土屋昌次は柵を掴もうとして倒れている姿で描かれてました。
設楽原・土屋右衛門尉昌次戦死之地

大宮前激戦地
この辺りは武田軍の右翼側に位置しており、馬場信春らが布陣してました。
馬場信治は武田軍撤退時の殿を務めており、勝頼撤退後に追撃する織田軍との戦闘で討死しています。
設楽原・大宮前激戦地

当時、ここに双方合わせて5万人くらいの人が集まり、1万人とも2万人とも言われる戦死者が出たわけですが、現在の静かな田園風景からは想像もつきません。