大阪府 大阪城(2) ― 2018年04月28日
前回の続きです。
大阪城西の丸の櫓が公開されていたのでそちらも見学して行きます。
南仕切門跡
二ノ丸南側と西側は石垣で区切られていました。 ここはその通用口となる場所に配置された南仕切門跡です。 西側の石垣には太鼓櫓があったそうで、時間を知らせる太鼓が打ち鳴らされていたようです。 門も櫓も明治維新の混乱時に発生した火災で焼失しています。
大手口多門櫓
こちらが今回の特別公開物件一つ目の大手門多門櫓です。
1628年の徳川による大阪城再建の時に創建されましたが 1783年に落雷で焼失しました。
現在の建物は1848年に再建された物です。
この多門櫓の珍しい機能として「槍落とし」があります。 石では無く槍を落とすように設計されている訳ですが、槍の場合、長さがあるのである程度の高さがが必要になります。 大阪城のように大規模な城だからこそ実現できた機能かも知れません。
千貫櫓
大手口多門櫓を通り抜けるとその先に千貫櫓が見えてきます。
創建されたのは 1620年なので、徳川による大阪城再建初期の頃の建物になります。
名前の由来は、織田信長が石山本願寺を攻めた時に、横槍に悩まされた櫓があり、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と話した逸話からとの事。 その位、重要な櫓と言う事でしょう。 なお、秀吉の時代にも「千貫櫓」の名の櫓が存在していたようですが、それとは別物かと思います。
乾櫓
特別公開の対象ではありませんが、西ノ丸現存櫓の一つである乾櫓に寄り道します。
名前の通り、西の丸北西に位置する櫓で、L字型に折れ曲がった構造をしています。
創建年代は 1620年なので、徳川による大阪城再建初期の頃の建物のようです。
現在は庭園となっている西ノ丸ですが、かなりの広さです。 特別公開の櫓から入ったので気が付きませんでしたが、西ノ丸庭園は有料エリアになります。
西ノ丸は歴史的にも重要な舞台でした。 秀吉の死後は北政所の住居もありました。
関ケ原の合戦では毛利輝元が入った場所でもあります。
江戸時代に入ると、大阪城代の妻子が住む屋敷などがあった場所です。
焔硝蔵
ここは火薬の貯蔵庫だった場所で、石造りの少し変わった蔵です。
以前は半分地下に埋まった「埋土蔵」だったそうですが、湿気による火薬への影響が大きかったようです。 また、1660年には落雷により大爆発を起こした事もあったようです。
現在のように石造りに建て替えられたのは 1685年の事になります。
中は外に比べると少しヒンヤリしていました。
大阪城を散策して以外と徳川時代の建造物が残っている事に驚きました。
逆に、豊臣時代の遺構はほとんど残っていません。 豊臣時代の痕跡は徹底的に破壊された事を再認識しました。
しかし、バイクの駐輪施設はもう少し何とかして欲しいですね...。
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