福岡県 福岡城 ― 2019年04月29日
関ケ原の戦いで活躍した黒田長政は筑前を与えられます。
当初は旧領主小早川氏の居城、名島城に入城しますが利便性の問題から 1601年に福岡城の築城を開始します。 以降、幕末まで黒田氏が城主を務めます。
都市部にある城郭はバイクを停める場所に困る場合が多いのですが、福岡城は舞鶴公園第1駐車場付近に駐輪場があるのでそこにバイクを駐車しました。
場所的には昔は三ノ丸だった場所かと思います。
福岡城に到着した頃は雨足も強くなっており、大野城からの移動は大変でした。
駐輪場から鴻臚館の方に少し入った辺りにある、立派な二ノ丸の石垣です。
見た感じ、乱積で積まれた打ち込みハギと言った所だと思います。
スタンプのある鴻臚館は最後に行く事にするので、引き返して松ノ木坂御門跡から二ノ丸に入る事にします。
松ノ木坂御門跡
三ノ丸には家老など重職に就く家臣の屋敷がありました。
ここはそんな三ノ丸から二ノ丸への入り口になる松ノ木坂御門付近になります。
二ノ丸
福岡城の二ノ丸は「二ノ丸」、「東二ノ丸」、「南二ノ丸」区画分けされていたようで、現在梅林ががあるこの場合が「二ノ丸」にあたる場所です。
これでも結構な広さがありますが、二ノ丸御殿があったのは「東二ノ丸」の方で、現在はラグビーのグラウンドになってしまい当時の面影は残っていないようです。
それにしても、この雨だと人が少ないですね...。
表御門跡
この階段の先が本丸になります。 現在は階段しかありませんが、ここに表御門と呼ばれる櫓門がありました。 門は 1918年に崇福寺に移築されていて現存しています。
崇福寺は黒田家の菩提寺です。

祈念櫓
本丸の鬼門の方角にあり、鬼門を封じる為に 1860年に建てられた櫓です。
この櫓は1918年に大正寺に移築され観音堂として使用されていましたが、1983年に元の場所に戻されました。
ただ、観音堂として移築された時に大幅に変更されており、福岡城にあった当時とはだいぶ外観が変わっているようです。 櫓としては違和感のある外観はその為のようです。
裏御門跡付近
祈念櫓から真直ぐ進めば天守台だったはずなのですが、雨のせいかルートを見失い、一度表御門から二ノ丸に戻ってしまい、裏御門側から本丸に入り直すと言う無駄な行動と取ってしまいました...。
鉄御門跡
雨の中、ウロウロしてようやく天守台付近に到着です。
天守の入り口となる鉄御門跡です。 道幅がかなり狭く、上には櫓や天守があるので重要な防御地点だったと思います。 また、名前からして門扉も鉄板が貼られていたと思います。
埋門跡
鉄御門跡を通過した先にあるのが埋門跡です。
裏御門からの本丸への入り口は2手に分かれており、もう一方の入り口から入るとこの門から天守に入る事になります。 左側にある石垣が天守台です。
天守台
現在では福岡城には天守が存在しなかったと言う説が主流のようです。
天守台は大規模な物で、実際に天守が建てられたら五層はあったと推定されます。
一度建てられた天守を後で解体したとの説もあり、実際に天守台を見てみると、これだけの天守台を造っただけと言うのも違和感を感じます。 もっとも、財政的な問題もありますが...。
小天守台
本当は埋門跡を通過して多門櫓に行きたかったのですが、道を見失ってしまい諦めました。
どうやら、門を通過してすぐ右側に下る通路があり、その先から多門櫓の方に行けたようです...。 雨の中だと道を調べるのも面倒になってくるので良くないですね...。
そう言えば、天守自体の存在が疑わしいのに、小天守は存在したのでしょうか?
小天守台側から本丸の石垣を眺めた所。
立派な石垣ですが、二ノ丸の石垣と比べると、石材があまり加工されていないように見えます。 角の部分は算木積ですが、野面積に近い印象を受ける石垣です。
福岡城は幕末に大規模な改修が行われたようなのでその関係でしょうか?
扇坂御門跡
ラグビーのグランド近くにある門跡で、当時は二ノ丸御殿のある「東二ノ丸」への入り口にあたる場所だったと思います。
扇坂には「お綱門」と呼ばれる門があったそうで(「扇坂御門」や「東御門」の可能性もあるようです。)、柱に触れるだけ祟られるとの言い伝えがあったそうです。
「お綱」はお側役だった浅野四郎左衛門の妻で、芸者だった女に入れ込んだ夫と別居状態でした。 お綱は本宅に使いを出しますが、使いは追い返された負い目から自害します。
怒り狂ったお綱は本宅に向かいますが夫は留守で、屋敷にいた浪人に切りつけられます。
負傷したお綱は夫が登城している城に向かいますが、城門で息絶えたと伝わります。
東御門跡
三ノ丸から二ノ丸への入り口となる、松ノ木坂門跡の東側にある門です。
ここから100名城のスタンプが置かれている鴻臚館はすぐ側です。
鴻臚館展示館
ここが100名城のスタンプが置かれている鴻臚館展示館です。
7世紀後半、外交の拠点として筑紫館が建てられ、後に鴻臚館と呼ばれるようになります。
奈良時代、中国や朝鮮からの使節が来日すると許可が出るまで鴻臚館に滞在していました。
遣唐使もここから中国に渡っていたそうです。
平安時代になると遣唐使が廃止され、許可を得た商人と直接交易するようになるので鴻臚館は役目を終えます。
都心部にある城跡は公園整備かされた時に当時の遺構が失われている場合が多いのですが、福岡城はその中では保存状態が良い方なのかも知れません。
今回は雨が強かった事もあり急いで廻る事になりました。 多門櫓や潮見櫓などの建物を見逃してしまったのは残念でした...。
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