神奈川県 日本郵船氷川丸(1) ― 2019年09月07日
氷川丸は日本郵船のシアトル航路で使用されていた貨客船で、1930年に三菱重工が建造しました。
戦時中は病院船として使用され、多くの病院船が撃沈される中、戦火を耐え抜きます。
戦後は貨客船に復帰し 1960年に引退します。 引退後は山下公園に係留されています。
2016年には重要文化財に指定されています。
切っ掛けは「しょうけい館」の企画展「病院船」でした。 氷川丸が山下公園に係留されている事は昔から知ってましたが、戦時中に病院船として使用されていた事は知りませんでした。
また、保護されていると思っていた病院船の多くが攻撃を受けて沈んだ事も知りました。 氷川丸も機雷による攻撃を三度も受けています。
全長 163.3m、再興速力 18.38ノット、船客定員 286名。 太平洋を 254回も横断し、25,000人の乗客を運びました。 当時は著名なサービスの行き届いた豪華客船で、チャールズ・チャップリンも乗船しています。 戦争中は 30,000人以上の負傷者を搬送しています。
船体を固定している鎖に海鳥がびっしり。 電線の雀のよう...。
白灯台
氷川丸の側にいる「白灯台」と呼ばれる小さな灯台も年代物で 1896年に竣工した物です。
東水堤の先にあった白灯台ですが 1958年の衝突事故によって真っ二つに折れてしまいます。
白灯台は海から引き上げられた後、1963年に現在の位置に移設されます。
同時期に建てられた「赤灯台」の方は現在も現役で東水堤の先にあります。
では、船内を見学しましょう。
一等食堂
一等船客用の食堂です。 内装はマーク・シモンによるアールデコ様式で豪華な物でした。
船の幅をいっぱいに使った開放的な空間です。
当時だと2週間くらいの船旅だったようなので、ここでの食事は楽しみの一つだったと思います。
一等食堂が豪華なのは分かりますが、二等、三等船客用の食堂は公開しないのでしょうか...。
一等児童室
一等食堂の隣にある、一等船客専用の遊戯室です。
一等船客はディナー中に子供を預ける事ができ、女性乗組員は、ここで預かった子供の世話をしていました。 ここもマーク・シモンがデザインした部屋で、天上付近の子供が遊ぶ絵も当時の物です。
階段を登って A-DECK に移動します。
A-DECK は主に一等船客に関する部屋がある場所です。
一等読書室
一等船客が読書や手紙を書いた場所です。 この先が一等社交室になります。
三等船客は、まず立ち入れない場所で、そもそも船内の移動も制限されていたようです。
至れり尽くせりのサービスですが、当時の横浜~シアトル間の片道運賃は一等船客だと 250 ドル(だいたい 500 円くらい)したそうです。 1930年の大卒初任給が 73円との情報があったので、かなり高額だったはずです。 運賃はグレードによりかなりの価格差があり、二等で 130 ドル、三等で 95 ~ 60 ドルでした。
一等社交室
氷川丸のメインホールで公式レセプションなどに使用されました。
夜はダンスホールとして使用され、女性の社交場でもありました。
一等社交室は A-DECK 前方にあります。
一等喫煙室
一等社交室が女性の社交場であったのに対し、一等喫煙室は男性の社交場でした。 場所も A-DECK の反対側になります。
氷川丸の名前はさいたま市大宮区の「氷川神社」から付けた物です。
中央階段の手すりには、氷川神社の「八雲紋」がデザインに組み込まれています。
船に神社の名前を付けるのは良いですね。 なんか、守られている感じがして...。
一等特別室
今で言う、スウィートルームで、内装が非常に豪華です。
チャップリンや秩父宮両閣下らが使用した客室で、寝室、居室、浴室で構成されています。
豪華すぎて自分だったら、ちょっと落ち着かないですね...。
病院船として使用されていた頃は、ここを医院長室として使用していたようです。
屋外デッキに出て操舵室の方へ向かいます。
多くの人がここのベンチに腰掛けてのんびりと海を眺めていたのかも知れません。
病院船の時は病室が不足するとここに畳を引いて患者を収容していたようです。
戦後も南方や大陸から多くの引き揚げ者を収容して本国へと送り届けました。 多くの人々が氷川丸に命を救われています。
救命艇
万が一の時に乗員乗客の命を守る救命艇です。
内部には食料、水、通信用具、釣り道具などが備えてあります。 救命艇揚卸装置は電力を失っても安全に着水できる構造になっているそうです。
艦橋
氷川丸を安全に運行する為の中心的な場所です。
一番上が操舵室で、その下が船長室です。
艦橋は、正面からみると大きな建物のように見えますが、裏から見ると解放感があると言うか、意外とスカスカな感じがしました。
では、内部を見学してみましょう。
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