京都府 三十三間堂~養源院2020年11月20日

三十三間堂の正式名は蓮華王院です。 お堂の正面の長さが 120m、柱間が 33 ある事から付けられた三十三間堂の通称の方が広く知られています。
三十三間堂は 1164年に平清盛が蓮華王院本堂の本堂として寄進した建物ですが 1249年に蓮華王院は焼失します。 その後、 1266年に本堂のみが再建され、その建物が現在の三十三間堂です。
ここの見所は、何と言ってもずらりと並ぶ 1000体+中尊の千手観音像です。 また、中尊の四方や前方に並ぶ 28体の仏像も含めてすべて国宝です。 この光景は、他では見ることができないと思います。

今回は泉涌寺からの移動なので「泉涌寺道」でバスに乗り「東山七条」で下車しました。
運が良ければ「博物館三十三間堂前」まで行くバスに乗れますが、「東山七条」から歩いてもたいした距離ではありません。
三十三間堂に到着した時は雨が降ってましたが、建物内の拝観を終えて外に出る頃には雨は止んでいました。
三十三間堂

三十三間堂

120m と、とにかく横に長いので、広角レンズでも全体を写す事が出来ません...。
この長いお堂の中に1000体の千手観音像が並んでいます。
ずらりと並ぶ千手観音立像の内、火災を逃れた創建時(平安時代)の物は 124体。 室町時代に造られた1体を除き、残りは再建した鎌倉時代に16年かけて造られた物です。
三十三間堂

三十三間堂

三十三間堂

三十三間堂・夜泣泉
堂僧が夢のお告げで発見したと伝わる霊泉です。 夜、泉の湧き出る音がすすり泣くように聞こえた事から「夜泣泉」と呼ばれるようになりました。 泉には地蔵が祀られ、その地蔵の前掛けを子供の枕にしけば夜泣きが治ると伝わります。
訪問時は庭全体を修復工事中だったので、手水舎に近づく事は出来ませんでした。
三十三間堂・夜泣泉

夜泣地蔵
良く分からいのが「夜泣地蔵」の事で、三十三間堂の境内北東には「夜泣泉」とは別に「夜泣地蔵」が祀られている場所があります。 案内パンフレットでは、こちらに「夜泣地蔵」と書かれています。 「夜泣泉」の地蔵と、こちらの地蔵、どちらが「夜泣地蔵」なのでしょうか?
三十三間堂・夜泣地蔵

太閤塀
三十三間堂の南側にあるのが太閤塀です。
瓦に太閤桐の文様が使用されている事から「太閤塀」と呼ばれているそうです。
でも、内側から見ると、全部の瓦が桐模様では無さそうでした...。
三十三間堂・太閤塀

三十三間堂・太閤塀

稲荷社
開運、心願成就の御利益がある稲荷社です。
三十三間堂の境内にも稲荷社がありますね...。稲荷信仰の広がりの強さを感じます。
三十三間堂・稲荷社

養源院
三十三間堂のすぐ近くにある養源院も参拝する事にします。
1594年、豊臣秀吉の側室淀殿が父親浅井長政の菩提を弔う為に建立したのが養源院です。
その後、火災で焼失しますが 1621年に徳川秀忠が妻である崇源院の願いにより伏見城の一部を移築して現在の本堂とします。 崇源院(お江)は淀殿の妹なので、姉妹で親の菩提寺を守った事になります。
養源院

養源院の門を通って直ぐ右側にあるのが白衣弁財天です。
宇賀神は弁財天と習合して出来た神様とする説もある事から、弁財天には白蛇が描かれている場合も多いようです。 ただ、蛇よりも奉納されている桶の方が気になりました。
桶は、弁財天が水の神様だからでしょうか?
養源院・白衣弁財天

養源院・白衣弁財天

参道の紅葉が良い感じです。
養源院

養源院の本堂は血天井で有名なのですが、コロナの影響で本堂内の拝観は取りやめになっていました...。 仕方がない事ですが残念です。
血天井は、落城した伏見城の床板を供養の為にはめ込んだ物です。
鳥居元忠と家臣たちはこの床板の上で自害しました。 よく見ると、人の跡のような形が今でも残っています。
養源院

養源院の拝観中止は残念でした。
コロナの影響には根深い物を感じます。


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