徳島県 勝瑞城跡 ― 2024年05月02日
勝瑞城の築城年代は不明です。
阿波守護だった細川氏が 15世紀前期頃に勝瑞に守護所を移したと考えられています。 ただ、それ以前にも何かしらの拠点が既に存在していたのかも知れません。
細川氏は室町幕府に対して大きな影響力を持っていましたが、家督争いにより衰退して行きます。 やがて三好長慶の謀反により細川晴元は追放追放され、中央政権は三好氏へと移ります。 勝瑞城も、三好実休(長慶の弟)の謀反により細川持隆(氏之)が自害し、1553年に持隆の子、真之が擁立しますが傀儡政権にすぎず、政権は三好氏の手に渡ります。
実休が戦死した後は長治が城主を務めますが、1557年、小笠原成助らの軍勢に攻められると自害、さらに、1582年に長宗我部氏が侵攻すると三好氏は撤退、勝瑞城は廃城となります。
勝瑞城館跡 駐車場
勝瑞城館跡に見学用の駐車場があるのでそこにバイクを停めます。
駐車スペースとしては十分だと思います。
まずは続 100名城のスタンプを押しに、勝瑞城館跡の展示室に行きます。
勝瑞城館跡 展示室
展示室は駐車場のすぐ隣なのですが、直接行く事が出来ませんでした。 一度道路に出てから回り込む必要があります。
展示室にも数台分の駐車場がありますが、周辺居住者の駐車場と間違えないように注意が必要です。 先ほどの駐車場から歩いた方が無難だと思います。
続 100名城のスタンプはここに置かれています。
展示室から勝瑞城館跡を眺めた所です。 めちゃくちゃ広いです。
手前の広場には池泉庭園があり、礎石建物跡も見つかってるようです。
駐車場に停めたバイクが小さく見えます。 写真に入りきらず、勝瑞城館跡は写真左側にも続きます。 非常に大きな館跡です。
なお、勝瑞城は奥に見えるマンションの右奥の方になります。
勝瑞城跡
先に勝瑞城跡を見学する事にします。 勝瑞城跡は県道 14号を渡った先にあるので、少し離れた場所にあります。
勝瑞城はほぼ正方形で、周辺が水堀で囲まれています。 多分、現在の水堀は当時の遺構だと思います。 発掘調査により、堀幅は 14m あり、瓦などが見つかってるそうです。
こちらは、広大な勝瑞城館跡と比べると、かなり狭い印象を受けます。
入り口は土橋のような構造になってました。
車が通れるように拡張された可能性があり、もっと狭かった土橋を広げたか、そもそも土橋は無かった可能性もあります。
勝瑞城が整備されたのは館よりも後のようで、1580年頃のようです。 1582年に長宗我部氏との間で中富川の戦いが始まり、勝瑞城は包囲されます。 ここがその場所だったのでしょうか?
見性寺
現在の勝瑞城跡は、見性寺の境内のようです。
見性寺は三好氏の菩提寺で、昔は城の四方にあったようです。 江戸時代中期に現在の場所にうつされたようなので、意外と古くからこの場所にあるお寺のようです。
建物が新しいので、戦後に移ってきたのかと思いました...。
なお、1585年に蜂須賀氏が阿波に入ると、城下の寺院の多くは徳島城下に移されたようで、勝瑞城の城下町は衰退していったようです。
勝瑞城の周辺は土塁でかこまれてました。
かすかに盛り上がっているので、その辺りが土塁だったのだと思います。 でも、ほとんど土塁の痕跡は残ってません。
発掘調査により、土塁の基底部は幅 12m、高さ 2.5m ありました。
勝瑞義家碑
最初、人の名前かと思ったのですが、どうやら「しょうずいぎちょうひ」と読むようで、阿波三好氏の盛衰を記した那波魯堂の書物の事のようです..。
では、バイクを停めた、勝瑞城館跡の方に戻りましょう。
勝瑞城館跡 堀跡
どうやら、広場の色分けは堀のあった場所を表しているようです。 赤い部分は地表に出ていた通路のような場所で、自分が立っている黄色っぽい場所は堀底だった場所です。 更に右側の少し明るい部分は「区画5」と呼ばれている場所だと思います。
「区画1」と「区画5」の間は2重の堀になっていたようです。
しかし、「区画1」側の堀は、すごい幅ですね...。
堀の断面が分かるように展示されています。
中央に見える盛土されている場所が掘りの中にあった通路のような場所で、先ほどの赤い地面に繋がっています。 この通路の左右が掘りになっています。
左側が「区画5」がある方向で、右側が「区画1」がある方向です。 区画1側の堀幅が非常に広い事が分ります。
奥に見えるのが先ほどの通路のような場所。 手前の地表が「区画1」と堀の境目です。
幅の狭い北側の堀は幅 4.5m 深さ 2m、南側は幅 21m 深さ 3m 以上もあります。
勝瑞城は平城なので、これだけ大規模な水堀が必要だったのかも知れません。
ただ、不思議な事に、堀には土塁が無かったようです。
区画1礎石 建物跡
北西角部分にあった建物の礎石跡を再現した物です。 堀を挟んで奥の方が「区画3」と呼ばれている場所です。 ここは「区画1」と「区画3」を結ぶ橋があった場所なので、出入りを監視する番所のような建物だったのかも知れませんね..。
地面の色が少し変わってます。 この境目が水堀と地表の境目のようです。
四角い部分が先ほどの礎石建物跡。 分かりやすい展示で助かります。
「区画1」が一番最初に整備され始めた場所で、16世紀初期には庭園や屋敷があったと考えられているようです。
先ほどの礎石建物跡付近の堀跡から南側を眺めた所です。
左側が駐車場で「区画1」側になります。右側が「区画3」で、「区画3」の奥の方が「区画2」です。
右奥に伸びるのが「区画2」と「区画3」を区切る堀跡です。
写真中央奥に見えるのが「区画2」です。
勝瑞城館跡の「区画2」~「区画3」は 16世紀中期~後期に整備され始めたと考えられています。
「区画2」の中にある区画溝
この溝を境に出土品の内容が異なるようです。
多分、接客や儀式的な空間と、日常的な生活空間がこの溝を境に分けられていたようです。
礎石建物跡
この辺りから礎石建物跡が見つかっているようで、その礎石跡の上に休憩所を建てたのだと思います。
ここは近くにある枯山水庭園を眺めるのにちょうど良い場所なので、接客用に使用されていたのかも知れません。 なお、発掘調査により大量の炭化物が見つかっている事から、ここの建物は 16世紀末頃に消失したと考えられています。 原因は、やっぱ長宗我部氏ですかね..。
枯山水庭園
先程の休憩所近くにあります。
この庭園は 16世紀後半に造営され、先ほどの礎石建物と同時期に廃絶されたと考えられています。
区画3
この辺りが勝瑞城館跡で「区画3」と呼ばれている場所です。
発掘調査により、この辺りから2基の墓の跡が見つかっています。
木棺に入れられて埋葬されていたようで、一人は身長 130cm 位の男性、もう一人は身長 170cm 位で 40 ~ 60歳程度の男性のようです。
四国の続100名城巡り、一城目、登城完了。
ここまでは順調。
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